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2016年5月29日



天の御国で絶対主と幸いな交わりを持つために必要な心

マ人への手紙12:1~8



(起)「天の御国で絶対主と幸いな交わりを持つために必要な心」について、学んでいきたいと

思います。


(承) さて、ロマ書の12章以降を読んで行くと、「厳しい戒めが書いてある」という印象を

私たちは持ちます。しかし、これは「戒め」ではなく、パウロの「勧め」です。どういう勧めかと

言いますと、「私たちが
天の御国に入れていただいた時、そこで絶対主と幸いな交わりを持つ

ことができるように、その備えをこの地上でして行きなさい
」という勧めです。まず、

1節を見ますと、「・・・あなた方の体を、絶対主に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として

ささげなさい」とあります。これは、6章でも学んだように、アオリストの命令形で書かれて

います。「アオリストの命令」とは、「時間の継続がない過去の一時的な命令」のことですから、

この御言葉は、過去においてパウロがメッセージとして語ったことであり、「このように生きて

いくのですよ」と、私たちに勧めていることなのです。また、3節を見ますと、「・・・思うべき

限度を越えて思い上がってはいけません。むしろ、絶対主が各自に分け与えられた信仰の量に

したがって、慎み深くしなさい」とあります。これは、アオリスト形ではなく、現在形です。

ですから、今この御言葉を無視して絶対主の前に歩むことは、恐ろしいことです。しかし、

私たちはそれを本能でやってしまっているのです。例えば、怒られたり指摘された時、自分の罪を

棚に上げて人の上に立ち、自分の義、自分の正しさを主張しようとします。それは、罪人の限度を

越えていることです。もし、今その心を持っている状態でイエス様とお会いすることになったと

したら、果たして「天の御国に来なさい」と言ってもらえるでしょうか。言ってもらえるわけが

ありません。逆に、「何様のつもりだ。お前は罪人ではないのか」と言われ、絶対主とイエス様に

拒否されて、裁かれてしまいます。


(転) では、私たちが天の御国に入れられ、そこで絶対主と幸いな交わりを持つために必要な

心とは何でしょうか。
それは、「悔いし砕かれた心」です。私たちはどこまで行っても罪人で、

たとえイエス様を信じて救われたとしても、罪人であるという事実は変わりありません。だから、

限度を越えて、絶対主の前に自分の義を立てることはできません。もし、罪を犯した場合には、

すぐに弁解の心は砕いてへりくだり、下手に出て心を開き、明るい顔付きで怒られたことを

受け留めて行くべきです。怒られたことに固まって反発したり、言い訳したりする必要はありま

せん。怒られたなら、それを素直に受け留めて行けば良いのです。
問題は、私たちは生まれ

ながらに罪人であるにもかかわらず、如何にも罪人でないが如くに振る舞おうとすることが、

子どもの頃から身についてしまっていることです。だから、自分の罪を棚上げにしてでも、

自分の義を主張しようとするのです。
この部分は、絶対に改めていかなければなりません。

でないと、先程も申しましたように、イエス様とお会いした時、天の御国に入れていただくことが

できないかもしれません。万が一入れて頂けたとしても、自分の罪を棚上げして、自分の義を

主張するような者は、絶対主から、拒否されます。少し指摘された位で、すねたり、むくれたり

するような人が、もし御国に入ったら、その人自身も御国ではやっていけませんし、絶対主も

その人とは、交わりを拒まれます。だから、そのような人には、「わたしはあなたを知らない」と

言われるでしょう。その時に、今まで自分が一生懸命やってきたことを、いくら主張したとしても

「そんなものは関係ない」と言われてしまうだけです。


(結) ですから私たちは、イエス様が来られる前に、このパウロさんの勧めをしっかりと

心に留め、「悔いし砕かれた心」を自分のものとして行かなければなりません。私たちの教会は

「悔いし砕かれた心」について、ずっと学んできましたが、なぜこんなにも長い間、それだけを

学んできたのかというと、
それこそが天の御国において一番大切な心だからです。どうか、

「自分の義を立てようとする心を砕く」という、そのくらいの意識は持って行きましょう。

罪人なのですから、裁かれたのなら、それは黙って受けて行くのが当然です。人から指摘される

ということは、ほんの少しでも自分には非があるから言われるのです。そうならば、自ら下手に

出て、「すみませんでした」と謝って行く心は、絶対主の前に必要です。間違っても絶対主の前に

弁解することは禁物です。絶対主に通用する心は、私たちのような者が、罪人であって憐れみを

受けた者ですから、下手に出る心を表すことです。その心さえ持てば、天の御国に入れて

いただけるだけでなく、そこで絶対主と幸いな交わりを持つことができるのです。どうか、

今この地上でその心を自分のものとし、天の御国で絶対主と幸いな交わりを持つ備えをして

行きましょう。
 

 


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