教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室



2016年5月22日



聖霊の満たしのために必要な心

マ人への手紙6:11~14



(起)ローマ書を通して「聖霊の満たしのために必要な心」について学んでいきたいと思います。

(承) さて、6章12節を見ると、「だから、あなた方の死ぬべき体を罪の支配に委ねて、

その情欲に従わせてはなりません」とあります。この御言葉は、「あなた方の死ぬべき体を罪の

支配に委ねて」という部分は現在形ですが、「その情欲に従わせてはなりません」という部分は

不定形の命令です。「不定」ということは、「一定でない」ということですから、すなわち


「一辺倒ではない」
ということです。となると、この御言葉は一つのメッセージとしてパウロが

語った勧めであって、一辺倒な律法ではないのです。
私たちは救われてはいますが、今もなお

罪人には変わりありません。しかし、罪人だからと言って、「罪を犯しても良い」とは言え

ません。だから、説教として、「罪の情欲に従わせてはなりません」と語り、勧めているのです。

次に13節を見ると、「また、あなた方の体を不義の器として、罪にささげてはなりません。

むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身と、その手足を義の器として絶対主に

ささげなさい」とあります。この御言葉も、前半の部分は現在形ですが、後半の「・・・義の器として

絶対主にささげなさい」という部分は、アオリストの命令形です。
「アオリストの命令」とは

「過去になされた、時間の継続に関係ない命令」のこと
ですから、この御言葉も、説教として

パウロが語った言葉であって、
律法ではありません。これが、もし現在形の命令なら継続も

表しますので、実に厳しい律法の支配の中にあることになってしまいます。


(転) では、もしパウロが、この12、13節を実際に現在形で書いていたとしたら、

どうなるのでしょうか。それは、人間を再び、旧約よりも厳しい律法の世界に戻すことになり

ます。そんな中に置かれたら、私たちは、とても絶対主に対して生きていくことはできません。

なぜなら私たちは、たとえイエス様を信じて救われたとしても、現実の自分自身は、「惨めな

罪人のまま」ですから、
「イエス様を信じた者として、正しい道を歩んでいきたい」と願った

としても、それができない自分自身を現実に見るのです。
私たちは、自分の心に正直になれば、

その惨めな自分を認めざるを得ません。それは、まさにパウロさんが7章で語っている通りです。

ところが、律法主義の人は、常に「自分はきちんとやっている」という前提の中に立っています

ので、「善を行いたいのに、行うことができないという惨めさや、内側から出てくる嫌な思い、

心の中の罪」を見ないようにして誤魔化しているのです。ところが、クリスチャンはそうで

あってはいけません。クリスチャンは、パウロと同じように
「自分は、善をしたいという意志が

あるのに、できない罪人なのです」と、心の内側の問題を正直に認めていくべきです。
なぜなら、

「人は外側を見ますが、
絶対主は心を見られる」から自分の心を誤魔化してはいけないのです。

絶対主は、救われたからといって、もう罪人ではなくなったが如くに振舞おうとする人間を嫌われ

ます。絶対主はそういう人間を見ると、「確かに、イエス・キリストによって、罪の贖いを

受けている。しかし、現実はどうなのだ。心の中に罪を抱え込んでいるだろう」と言われます。

だから、「私は悪いことをやっていません。学校でもきちんとやっていたし、先生からも怒られた

ことはありません」と豪語しても、絶対主の前では、通用しません。全部心は、あからさまに

なっているからです。絶対主は「心を見ておられます」から、その人が何回すねたか、いつ

反抗心を抱いたか、全部知っておられます。私たちは、この絶対主の前にあって、「自分は

きちんとやって来ました」とは、決して言うことは出来ないのです。


(結) ですから、私たちは、「きちんとやってきた」という思いを砕いて、「自分はすべき

ことも出来なかった、本当に惨めな人間です」と認めるべきです。
それは、心の罪を指摘された

ときに、「その通りです」とへり下って受け留め、謝って行かなければ、律法学者のように、

偽善者になってしまいます。それは、責任を取らない誤魔化しの人生を続けることになります。

私たちは、確かにイエス様を信じて
救われましたが、それはあくまでも、現在は「救われた立場を

持っている」ということであって、
現実の自分は、たとえ聖霊の満たしを受けていたとしても、

「罪人のまま」です
。だから、現実の私たちは、「本当に惨めな人間です」と認めていくのが、

私たちの真実な姿です。
私たちがこの心を持って行くなら、絶対主は聖霊によって満たし続けて

下さるでしょう。逆に、遜りのないクリスチャンに、聖霊の満たしを与えたら、ただ傲慢になる

だけです。なぜなら、「自分はきちんとやってきたから、力を与えられたのだ」と言って、

思い上がり、人を裁くようになって行くからです。それは一番恐ろしいことです。どうか、

自分自身の心の罪を正直に認め、絶対主の前にへりくだって、聖霊の満しのために必要な心を

養って行きましょう。
 

 


 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室