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2016年5月15日



悔いし砕かれた心を学ぶ秘訣

マ人への手紙3:21~26



(起)「悔いし砕かれた心を学ぶ秘訣」について、学んでいきたいと思います。

(承) さて、3章に入ると、「義人はいない。一人もいない」ということが、パウロによって

はっきりと語られています。確かに、ユダヤ人は小さい頃から旧約聖書を学び、絶対主の前に

祝福される道と呪われる道を示されて来ました。ところが、その教えを聞いていても、実際に

絶対主の御心の中を歩んだ人は一人もいませんでした。ユダヤ人でさえそうなら、異邦人は元々

絶対主を無視して、罪の中に歩んでいたのですから、呪われて裁かれるのは当然です。ですから、

まさに「義人はいない。一人もいない」と書かれている通りだったのです。ですから、「律法を

行うことによっては、誰一人絶対主の前に義とされない」のです。ところが、21節、22節を

見ますと、「今や、律法とは別に絶対主からの義が明らかにされました。・・・すなわち、イエス・

キリストを信じる信仰によって与えられる絶対主の義であって、すべて信じる人に与えられ、

何の差別もありません」とあります。律法が与えられた元々の目的は、人間を絶対主へ導くため

でした。しかし、それが実現出来ませんでした。だから、「イエス・キリストを信じる信仰に

よって、絶対主に結びつく新しい救いの道」を開いて下さったのです。そこで、
もしこの信仰の

道を最後まで歩み全うするなら、絶対主はその人を受け入れ、義として下さるのです。
「義として

下さる」という意味は、言葉を換えると、「罪を全部消して下さる」という意味です。罪人の罪が

全部取り除かれ、イエス様と同じような者とされて、天に入れていただけるということです。

「絶対主は、予め知っておられる人々を御子の形と同じ姿に、予め定めてくださいました。

それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためです。」(ロマ8:29)ということです。

(転) では、その「信仰の道を最後まで歩み全うする者」とは、どのような者でしょうか。

それは、「イエス様に依らなければ、自分は地獄に行く者だ」ということがはっきり分かって、

最後まで信じていく主を信じた罪人のことです。すなわち「地獄に行くほどの罪など犯して

いない」と言い張る感情を砕いて、「罪を認めようとする悔いた心を持っている人」です。

私たちがこの地上にいる限り罪は消えません。だから罪を犯してしまいます。罪を犯せば、

それに対する報いがあります。しかし、その報いを受けたら、「自分は罪を犯した罪人です」

ということを人前にさらすことになりますから、罪を誤魔化そうとします。しかし、それを

したら、自分は罪人ではないということを表明することになりますから、キリストの救いを

否定することになってしまいます。しかしながら、「罪人が罪人である」ことを人前にさらす

ことは、地獄へ行かなければならないことなのか?と言うと、そうではありません。そういう

罪人を地獄の裁きから救ってくださったのが、イエス様です。だから、私たちは自分の罪を素直に

認め、この地上の罪の報いぐらい受けていけば良いのです。その姿勢を取った者を絶対主は

軽んぜず、受け入れ、「その悔いし砕かれた心をわたしは蔑まない」と言って、私たちの心に罪の

赦しの光を灯して下さるのです。私たちの教会は、この「悔いし砕かれた心」について長い間

学んできました。しかしながら、なかなかその世界に入ることができないでいます。その原因は、

牧師のメッセージよりも、自分が抱いている考えが優先しているからです。牧師のメッセージは、

「『自分は罪人です』と正直に認めていけば良い」というものでしたが、私たちは、キリストを

信じて救われたクリスチャンだから、「自分が罪人だということを認めたら証が出来なくなる。」

だから、「自分は正しい人間のように生きていかなければならない」と、正反対のことを思い

続けてきたのです。
問題は、御言葉を聞いて「その通り、そのままやってみよう」という素直な

姿勢がないことです。私たちはいつも、「聞いたことをきちんと理解して、それを掴んだら、

その道に進みたい」と考えますが、それは間違っています。もし自分の頭で考えて理解できる

ことなら、とっくにやっていたでしょう。私たちには、理解できるだけの霊的な能力は元々ないの

です。ですから大切なことは、たとえ分からなくても、まずその通りやってみることです。

やってみて初めて、「こういうことだったのか」という霊的な心が分かってきます。生まれ

ながらの人間は、霊的な事柄の、全く知らない世界を学ぶのですから、やる前に理解できるわけが

ありません。「悔いし砕かれた心」も、まずやってみなければ分かりません。「そんなこと

言われてもできない」とか、「どういうふうにやればいいの」とか考えずに、
「できない」と

思ったところを砕いて、まずは言われたことをそのままやってみる、砕かれた心が必要です。


(結) 私たちがイエス様を信じた時も、何もかも理解して信じたわけではなかったはずです。

「私たちは、行いによって義と認められたのではありません。ただ、イエス・キリストの贖いの

故に義とされたのです。」だからイエス様を信じれば良かったのです。全てのことが
よく分かった

訳ではありません。それでも、ただ信じて受け留めただけ
でした。そうしたら、心の中に温かい

ものが入ってきて、「本当に信じるだけで良かったんだ」ということを味わったのです。それは、

「悔いし砕かれた心」においても同じです。「
できる・できないの問題ではなく、まず言われた

通りにやってみることです
。すると初めて、「こういうことだったのか」と経験していくのです。

ですから、私たちは自分のこだわりを捨て、素直になって行きましょう。そして、
「できない」

という気持ちを砕いて心を開いて行きましょう
。これが、「悔いし砕かれた心」を学ぶ秘訣です。

どうか、今日のメッセージをそのまま受け留め、その通りやって行こうではありませんか。
 

 


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