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2016年3月27日



御国に繋がるクリスチャン

ヨハネの黙示録7:13~17



(起)復活の命にあずかるクリスチャンの望みに目を向けて、御国に繋がるクリスチャンの

あり方は、
死に至るまで忠実である『勝利を得る者』の生き方を学んでいきたいと思います。

(承) さて、黙示録には、信者が患難時代を通って行くことが明確に記されています。例えば、

7章の13節の、「白い衣を身にまとっている人々」というのは、14節に記されている「大きな

患難を通って来た人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くした人たち」であると、

はっきり記されています。
すなわち、患難時代の中にあっては、獣は聖徒に勝つことが許されます

≪13章7節≫。
ですから、
逆にクリスチャンは殉教を通して獣に打ち勝つのです。その人たちは

7章15節にあるように、死んだ後に甦らされ、白い衣を着せられて、絶対主の御前に幕屋を

張り、子羊によって、命の水に導かれる人々なのです。ところが、現代のほとんどのクリスチャン

は目が曇らされており、「患難時代の前に天に引き上げられる」と、考えています。もし、

その考えのまま患難時代に入ったら、その人たちはどうなるでしょうか。「イエス様を信じていた

のに、何故こんな目に遭わなくちゃならないのだ」と失望落胆し、主を信じてきたことの意味を

見失ってしまいます。また、自暴自棄になって絶対主に背を向けていく可能性さえあります。

そのような人は、たとえ信者であっても、いわゆるグレーな信者となって信仰を全うすることが

できないだけでなく、ゲヘナへ繋がる者となってしまう可能性があります。私たちは、そのような

グレーな信者ではなく、患難時代の中にあって、死に至るまで忠実な「勝利を得る者」となって

行くべきです。その明確な信仰の証は、獣に妥協せず、命を引き換えにしても、主を信じる信仰の

心を通していくことです。


(転) では、その明確なクリスチャンとなっていくために、必要な心は何でしょうか。それは、

「罪人である自分自身をしっかりと自覚している心」です。その心を持っていれば、患難時代に

たとえ自分の命を奪われることになったとしても、「もともと罪人の肉の命なのですから、朽ちる

肉の命はいずれ失うものですから、これを取られても当然です」と差し出して行けるでしょう。

しかも、明確なクリスチャンは、キリストの贖いの故に復活し、御霊の体が与えられます。

このように、パラダイスに望みを置いているクリスチャンは、絶対主に自分の命を預けることが

できます。すると、その者は絶対主と繋がり、「大きな患難を通ってきた者」として天に迎え

入れられるのです。絶対主は、「罪を犯さない立派なクリスチャンを天に迎え入れよう」と考えて

おられるのではありません。多くの人は、イエス様を信じた後、「自分は救われたのだから、

聖い人間にならなければいけない良い人間にならなければいけない」と必死に義人ぶって

生きようとします
。しかし、それは無意味です。いくら頑張っても、生まれながらの人間は

罪人であり、「
生まれながらの血肉は、絶対主の国を継ぐことが出来ません」(第Ⅰコリント15:

50)。私たちは、罪人であったが故に、キリストは罪の償いの為に命を差し出して下さったの

です。ですから、
罪人は贖われただけで、罪人の自分は変わりません。どんな良い行いをしても、

罪人であることには変わりないのです。たとえこの地上で、「あの人はすごい人だ」と思われる

ようなことをしたとしても、生まれながらに持っている罪の肉が消える訳ではありません。


ですから、この朽ちて行く肉の命を取られても、敗北するわけではありません。むしろ、信じる

信仰のゆえにこの命を差し出して、獣に信じる信仰を表すなら、その
殉教の後に待っているものは

子羊の血で洗った新しいからだと、白い衣が与えられるのです。
私たちの生まれながらの血肉は、

朽ちていくだけのものです。ですから、この命はキリストに預け、信じる信仰は捨てないことを、

獣に突き付けて行くだけです。
私たちがこの地上で出来ることと言えば、ただ罪人の自分を

そのまま認めて、キリストの贖いを信じ通すことだけです
。確かに、罪人である自分の醜い罪を

認めることは嫌なことかもしれません。それは、自分にとっては呪いですから。しかし、まさに

その姿こそが、生まれながらの自分の現実の姿なのですから、その事実を正直に認め、その罪を

へりくだって受け止めて行くしかありません。罪を犯してしまった時には、当然怒られますが、

その報いは、受けて行くべきです。そのへりくだった心を持って、私たちは信仰を全うして行くの

です。


(結) イエス様は、どうしようもない罪人を救うために、十字架にかかって罪の償いをして

下さいました。そして、三日目に甦られたのです。ですから、信じた者は、このキリストの甦りの

命に預かることが出来ます。そして、イエス様は、私たちが死んだ後、私たちを甦らせ罪のない

キリストと同じ体に変えて下さり、「御国に来て良いよ」と声をかけて下さいます。その時には、

罪も何もかも洗い流され、全く新しい、朽ちない体を頂いて、天に行くことができます。私たち

にはその約束が与えられているのですから、臆するグレーな信者ではなく、最後まで信じる信仰を

通して、復活の恵みに預かりましょう。この「勝利を得る者」の望みこそ、キリストの復活された

イースターを喜び祝うのです。

 


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