(起)「御霊によって導かれた確信に立って、信仰の生涯を全うしていく」ということについて、
学んでいきたいと思います。
(承) さて、7節を見ますと、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞きなさい」と
あります。「諸教会」とありますので、これは、エペソの教会だけに語られている内容ではなく、
今日の私たちの教会にも語られている内容として読んでいくことができます。そのことを
踏まえて、2節から見ていきますと、「・・・使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たち
を試して、彼らが偽り者であったことを見抜いたことも知っている」とあります。この「使徒と
自称してはいるが、その実、使徒でない者たち」というのは、律法主義者のことです。また、
6節を見ると、「・・・あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでおり・・・」とあります。
この「ニコライ派の人々」というのは、律法主義者とは正反対の、無律法主義者のことです。
ここでは、「律法主義」も「無律法主義」も、絶対主の前には間違っているということを示して
います。私たちの教会は、これまでの学びを通して、そのことをきちんと学んできた教会です。
まず、「『あれをしました。』『これをしました。』という、外面的な律法の行いによっては、
誰一人絶対主に受け入れられることは出来ない」ということを学びました。また、逆に、「『私は
主の恵みによって救われたのだから、できなくても当然じゃないですか』と言って、放縦の世界に
入っていくのも間違っている」ということも学んで来ました。そして、結論として、「自分は罪人
以外の何者でもない。自分の力では何一つできない者だ」ということを教え諭され、「私は
100%罪人で、自分には何一つ力が無いので、どうか御力をお与え下さい」という遜りの心が、
罪人の人間にとって、歩みの原点だと教えられ、その心へと導かれてきました。この土台に立った
時、私たちには力が必要だと思い知らされ、一途に聖霊の力を求めるようになって来ました。
そして、「すべては、絶対主の手の中にある。すべてを絶対主に懸けて行くのだ。本物の信仰は
ここにしかない」という思いで、肉の決断ではなく、絶対主の御心を待って行う、信仰の忍耐を
通して、ここまで来たのです。この忍耐は、最後まで貫いていかなければなりません。私たちは、
これから患難時代に入って行きますが、その患難時代の中で命を閉じる時まで、この信仰による
忍耐は通していかなければならないのです。
(転) しかしながら、私たちは罪人ですから、必ず不安になる時が来ます。そこで、その不安な
状態をそのままにしていたら、私たちは最後まで忍耐を通すことができなくなってしまいます。
では、不安な状態に陥った時には、どうしたら良いのでしょうか。それは、「本当にこの道で
良いのでしょうか?御霊さま教えて下さい」と祈り、叫ぶことです。すると、御霊さまが諭して
教えて下さる中で考え始め、肉の迷いから解放されて、信仰の心に立って聖書を読み始めると、
「ここにこう書いてあるじゃないか」と目が開かれ、雲霧が晴れて迷いの心から、心の定めが
起こり、確信に立って進む道が開かれます。このように、私たちは自分の進むべき道を確かめる
ことができます。私たちは、不安になって、立ち止まってしまうことが何度かありました。でも、
「迷い、確信を失ったらダメ」ということではありません。その時には、もう一度確かめれば良い
だけの事です。ロマ書8:26を見ますと、「御霊は、弱い私を助けて下さいます。なぜなら、
御霊自ら言葉に表せない切なるうめきをもって、私たちのために、執り成して下さっているから
です」とあります。この御霊さまの働きが現実に私たちの中にあるのですから、常に内住の御霊に
あって考え、聖書を読んで行くべきです。私たちは、自分の人生を、自分の勘で決めて生きて
行くのではありません。御霊さまの導きの中にあって、それを確認し、確信を持って歩んで行くの
です。ですから、御霊から離れて、肉の思いで考えて行くのは止めましょう。
(結) 将来、私たちが患難時代に近づいた時、「自分は本当にこの患難時代を通って行けるの
だろうか」と、必ず不安になる時が来ます。その時には、天を見上げて、「私はイエス様を信じ
通して、命を差し出して行きたいのですが、本当にそれができるでしょうか。自分の命を懸けて
まで、信じる信仰を通して行くことができるでしょうか。御霊さま、導いてください。助けて
下さい。」と叫んで下さい。必ず御霊さまの導きがあります。その御霊さまの導きによって、
私たちの心が定まり、確信を持って一歩踏み出して行くことができるのです。罪人である私たちの
生涯は、この繰り返しです。どうか、常々に御霊さまによって導かれた確信に立って、信仰の生涯
を全うしていこうではありませんか。
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