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2016年2月14日



主を敬い、主を信じ仰ぐ心を持って生きていく

第Ⅰテモテ6:11~16




(起)「主を敬い、主を信じ仰ぐ心を持って生きていく」ということについて、学んでいきたいと

思います。


(承) さて、このテモテの手紙を読んでいくと、「敬虔」という言葉がよく出てくるのですが、

私たちの教会ではそれを「主を敬う心」という言葉に置き換えて、改訂しました。なぜかと言い

ますと、「敬虔」というと、「ふりをする。見せかける。良い子ぶる。」そのような意味に

取られがちだからです。特にクリスチャンは、「イエス様を信じた」ということで敬虔ぶり、

「自分は他の人とは違う」と思って、敬虔なクリスチャン義人を装って、生きて行こうとします。

しかし、
それは偽りの偽善に過ぎません。『御霊は、明らかにこう言っています。

後の時代になると、・・・惑わす霊と、悪霊の教えとに気を取られ、主を信じる心から離れ去る

でしょう。これらの悪霊の教えは、
偽りの偽善によるもので、』(第Ⅰテモテ4:2)とあり

ます。ですから、罪人の私たちが義人振ることは偽善です。私たちはたとえイエス様を信じた

としても、この地上にいる限りは、罪はなくなりません。なぜなら、救いによる罪からの解放は、

クリスチャンがこの世を去ってパラダイスに引き上げられる時に起ります。そのことは、

聖書にはっきりと書いてあります。第Ⅰペテロ1:5を見ると、「あなた方は、主を信じること

によって、
終わりの時に現される救いにあずかるように、絶対主の御力に守られているのです」

とあるように、
私たちが罪から解放されて義とされるのは、終わりの時です。すなわち、天に

引き上げられる時に、私たちは新しい体に変えられ、罪が完全に取り去られるということです。

ですから、この地上にあって敬虔ぶることは、正しくありません。いかにも「聖い人間」である

かのように振る舞っていくことが、敬虔なクリスチャンだと思ったら大間違いなのです。


(転) では、本当の「敬虔」とはどのようなものなのでしょうか。それは、「私は罪人の

頭です」(第Ⅰテモテ1:15)という心を持った上で、「イエス様の贖いのおかげで、罪人

である自分は救われ、天に帰ることが許されました。本当にイエス様のお陰です」と言って、

イエス様を敬っていく心です。この心に捉えられていないのに、表面だけ敬虔ぶっても仕方が

ありません。本当の「敬虔なクリスチャン」というのは、自分で装い作り出すものではなく、

私たちの心の中で、「人間は100%罪人であるということが自覚され、主を敬う心のゆえに

遜りの心を伴った者」のことを言います。
100%罪の自覚があって、本当の「敬虔」なのです

そして、その心を持った者は、同時に、「主を信じ仰ぐ信仰」を持ちます。なぜなら、「罪人の

頭」である自分は、主を仰ぐ心によって生きるしかないからです(ガラテヤ2:20)。

しかしながら、「こんな罪人の自分をイエス様は救ってくださった。感謝だ。嬉しい」と思って

も、また自分の弱さを見て自己嫌悪に陥っていては、主を信じ仰ぐ心は出てきません。

それは、主を信じ仰ぐのではなく、いつも自分を仰いでいることになります。この生き方は、

間違っています。私たちは、罪人である自分、情けない自分、弱い自分を自覚しているなら、

それで十分です。後は、いちいち自分の弱さを見る必要はありません。これからは、「後ろの

ものを忘れ、前のものに向かって、懸命に努力していく」のです。すなわち、主を仰いでいく

のです。
イエス様によって救われた者が、イエス様を仰がずに自分ばかり見ていたら、

救われた意味がありません。
これは、罪を棚上げしていいということではありませんが、

罪人の自分を見ていても、良きものは何も出て来ませんから、これからは、私たちを救って

くださったイエス様を仰ぎ、イエス様に期待するのです。
すなわち、主を敬い、信じ仰いで

いく心を持って行くことが、クリスチャンの正しい生き方です。


(結) ですから、信仰の土台は、「自分は罪人の頭である」という自覚から成り立って

行きます。それは、死ぬまで変わらない心です。しかし、そこをいつも意識し、そこに心を

向けてばかりいては、私たちはやっていけません。だから絶対主は、「『義人はいない、

一人もいない。自分は罪人の頭だ』ということが心底分かったなら、もうそれで良い。

そこから始めなさい」と言ってくださるのです。罪人だということが心底分かれば、「もう

自分のために生きたって意味がない」ということが分かります。だから、主に焦点を合わせ、

主を仰ぐ心を持って生きていく、新しい生き方が始まるのです。私たちはこの地上に望みを

置くのではなく、天の御国に入れて頂く望みによって、主が来られる時まで、「主を信じ、

敬う心」を持って歩んでいきましょう。自分を仰ぐのではなく、どこまでも主を信じ仰いで

行こうではありませんか。

 


 


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