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2016年11月27日



絶対主の宣言を受け留める

使徒の働き21:8~15


(起) 「絶対主の宣言を受け留める」ということについて、学んで行きたいと思います。

(承) さて、この箇所を見て行きますと、「パウロさんがエルサレムに上って行くことに

ついて、反対する者たちの声」が上がってきています。11節では、アガボという預言者が

やって来て、パウロさんの帯を取り、それで自分の手足を縛って、「この帯の持ち主は、

エルサレムでユダヤ人たちからこのように縛られて、異邦人の手に渡されると、聖霊が告げて

おられます」と言いました。普通ならば、これは聖霊による預言ですから、「エルサレムに

行くべきではない」と判断するところです。ところがパウロさんは、「どうしてあなた方は、

泣いて私の心を挫くのですか。私は、主イエスの御名のために縛られるだけでなく、

エルサレムで死ぬことさえも覚悟しているのです」と言い、「自分はエルサレムに行く」

という心をはっきりと表しました。エルサレムに行けば患難を受けると分かっていて、その中に

飛び込んで行くことは、勇気のいる決断です。人間というのは、自分にとって都合のいいように

物事を考え、自分にとって不都合なものは心の中から追い出そうとする傾向があります。

ところが、パウロさんはそれをしませんでした。彼は、たとえ御霊や預言者を通して患難を

告げられても、「行くな」とは言われていませんでした。むしろ、「エルサレムに行ってから、

ローマに行くように」と御霊によって示されていましたので、自分にとって不都合なことで

あっても、絶対主に示された道であるなら、どこまでも貫いて行こうと定めていたのです。


(転) では、私たちも、このパウロさんのような生き方を貫いて行くためには、どうしたら

良いのでしょうか。その生き方をするためには、聖書に書いてあることを、そのままやって

行こうとする心を持つことです。聖書の記録は、パウロさんがイエス様を信じ、その後

どのように生きて行ったかということについて書かれた書物です。だから、私たちは聖書を

読めば、信じた者たちがどのような生き方をして行けば良いのか、また、どのような心を持って

行けば良いのかが分かるのです。だから、私たちは聖書に書いてある通りの生き方をして

行けばいいことが分かります。ところが、そこには問題があります。それは、聖書に書いてある

「生き方・考え方」が、私たちのこれまでの「生き方や考え方」とは違いすぎるということ

です。パウロさんは、「主イエスの御名のためなら縛られるだけでなく、死ぬことさえも

覚悟しています」と語りました。この、「主イエスの御名のためなら死んでもいい」という

考え方は、生まれながらの私たちの中にはありません。信じた者として、「イエス様のために

働きたい」とは思いますが、「そのことの故に自分自身が苦しみを受ける」のは、勘弁して

ほしいと思います。むしろ、「主を信じたのだから、苦しみからいつも助けて欲しい」と

思うのが本音です。だから、落ち着いて聖書を読んでいる時は、「パウロさんのように自分も

やって行きたい」と思いますが、イザとなると、御言葉も他人ごとになってしまい、「自分に

できるか、できないか」で決めてしまうのです。そして、「できない」と思うと、御言葉に

反したことさえやってしまうというのが現実です。ですから、ここで私たちが理解しなければ

ならないことは、「御言葉は、絶対主の宣言である」ということです。宣言というのは、

「出来る出来ない」ではなく、「その通りすべきもの」で、そこにいちいち説明の必要も

ありません。
「御言葉をお前に与えた。それでお前は従うのか?従わないのか?」ということ

です。私たちが絶対主に従って行くための重大な決断をする時、そこには必ず不安が

やってきますが、それでも絶対主は、私たちの命の主ですから、あれこれ言わず「分かりま

した。やります。」と言うべきです。
もし、決断できなければ、うめきながら御言葉を読むの

です。そして御言葉を通して、「こうだ」と示されたなら、「もう分かりました。自分はもう

絶対主に従います」と、私たちは心を定めるのです。


(結) ですから、私たちが絶対主に従うべきか、どうかという時、御言葉は絶対主の

宣言ですから、宣言はそのまま受け留めるということです。
それが、自分で納得できたか、

できないかではありません。私たちは自分で納得して、自分自身を満足させたいと思いますが、

それは間違っています。
自分自身を満足させることが、私たちの生き方ではなく、素直に

絶対主の宣言を受け留めることが、私たちの残された地上での生き方です。
しかし、その心を

持った時には、主からの平安が来ますから、自分の心の中の不安も消えるでしょう。ですから、

どうか御言葉は、絶対主の宣言ですから、それを受けとめ素直に従って行く、この生涯を通して

行こうではありませんか。 

 

 


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