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2016年11月20日



「まず自分ありき」ではなく、「まず絶対主ありき」
という生き方を具体的に始める


マタイの福音書21:28~32


(起)「まず自分ありき」ではなく、「まず絶対主ありき」という生き方を具体的に始めることに

ついて、学んで行きたいと思います。


(承) さて、24節を見ますと、パウロは、「自分の走るべき行程を走り尽くし、

主イエスから受けた絶対主の恵みの福音を証しする任務を喜びをもって果たすことができる

なら、この命は少しも惜しいとは思いません」と語っています。このパウロさんの言葉を通して

教えられることは、「まず自分のことよりも、絶対主の御心を行っていく」という意識です。

パウロさんには、御霊の示しの中で「どの町々でも、鎖と患難が待ち受けている」(23節)

という言葉がありましたので、人々はパウロを心配し、エルサレムに向かうことをやめさせよう

としました。その彼らの気持ちは、「これから患難に遭うことが分かっているのに、わざわざ

そんな道に行ってほしくない。それよりも、私たちの所に留まって、私たちを教えて下さい」

という気持ちだったと思います。しかし、いくら人々から忠告されても、パウロの気持ちは

変わりませんでした。パウロは、「たとえ命を失うことがあっても、自分は行かなければなら

ない。行って、主イエスから受けた任務を果たし終えたいのです」という気持ちを、彼は

はっきりと表し、絶対主が示された道に進んで行ったのです。それは、パウロの心の中に、

「まず自分ではなく、まず絶対主」という心があったからです。


(転) では、私たちも、「まず自分」という意識から、この「まず絶対主」という意識に

変えられて行くためには、どうすればいいのでしょうか。答えは単純です。「私たちの救いは、

まず、イエス様が33年間の生涯の中で律法を完全に守り終えられて、私たちが長い間負わせ

られていた律法から、解放して下さいました。それだけではなく、私たちの罪の問題も、

イエス様が身代わりに負って下さったことによって、その罪の代価を払って下さいました。

ですから、私たちがこの地上で出来なかったことを、イエス様が全部やって下さったおかげで、

私たちは救いを得る者とされたのです。今それが分かったら、
私たちはもう自分のために生きて

行く必要はありません。私たちの救いに関しては、イエス様が全部やり終えて下さったのです

から、これからの私たちの残りの生涯は、自分のためではなく、イエス様のために生きて行けば

いいのです。この大前提の理屈をしっかり理解していれば、私たちの残りの生涯の目標が

はっきりします。
このことが、私たちの心の中ではっきり理解されていなければ、私たちは

なお、自分のために負いきれない努力をして行くことになります。なぜかと言うと、「自分自身

の努力によって、天の御国に入るふさわしい人間に変わって行かなければならない」と考える

からです。ところが、私たちの罪の問題は既に解決され、救われているのですから、自分の

救いのために努力して行く必要はありません。しかしながら、この地上で生きている間は、

罪が消え去ってしまうことがなく、その罪に苦しめられて行くので、どうしても自分の努力に

よって変って行こうとする方向に向かってしまうのが現実です。そこで、「主に喜ばれる人間に

なるため、自分の欲望や感情を消し去ろうと、一生懸命努力していくべきだ」と追い立てられて

しまうのです。これは、いわゆる修行の世界です。しかし、この修行というものには、落とし穴

があります。修行というのは、自分のためにやるものです。そして、自分の努力によって掴み、

獲得して行こうとするのです。しかし、そこには必ず誇りが生まれてきます。だから、それは

絶対主が一番嫌われる方向なのです。なぜなら、罪人を誇らせるために、人間の贖いをしたの

ではありません。ただ、罪人の努力では解決することが出来なかったため、イエス様が代価を

払って下さったのです。ですから、罪人がどんなに良いことをしたとしても、誇りを持とうと

するなら、絶対主は嫌われます。元々人間は100%罪人ですから。ですから、私たちは自分の

努力によって修行をして行くのではなく、絶対主から一つ一つ訓練を受けて教えられて行くの

です。
100%罪人の私たちは、叱られながら学んで行くのです。怒られながら学び、

身に付けたものは、決して自分の誇りにはなりません。


(結) ですから、私たちがすべきことは修行ではなく、絶対主から示されたことをまず素直に

行っていくことです。それが、パウロさんが持っていた「まず絶対主」という意識なのです。

すなわち、たとえ絶対主から示されたことが、自分にとって嫌なこと、辛いこと、不安に思う

ことであったとしても、「まず絶対主のお考えに従う」ということをしていくことです。

このことが、私たちにとっても訓練となるのです。これは、決して修行や人間の努力によって

身に付けて行くものではありません。
「救われた以上、もう自分のために生きる必要は

ありませんので、絶対主から言われることを、まず行って行く事」という心の切り替えをして

行くのです。その切り替えを今したならば、絶対主は、パウロと同じように私たちを使い、

働きを始めて下さるでしょう
。どうか、この心の切り替えを一人一人が行い、「まず自分

ありき」ではなく、「まず絶対主ありき」という生き方を具体的に始め出して行こうでは

ありませんか。
 

 

 


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