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2016年12月4日



『絶対主に対する従順な心を最大限に表し、
絶対主を第一にして行く』


使徒の働き16:20


(起)「絶対主に対する従順な心を最大限に表し、絶対主を第一にして行く」ということに

ついて、学んで行きたいと思います。


(承) さて、使徒26章20節には、「悔い改めて絶対主に立ち返り、悔い改めにふさわしい

実を結びなさい。」とあります。この御言葉を読むと、「最終的にはやっぱり行いか。

救われた者は、救われた者に相応しい行いが求められるのか」と考えます。それは、私たちが

この地上で教育を受けてきたのも、親や学校の先生に素直に従う「お利口さん」を目指して、

育てられて来たからです。だから、聖書を読んでも、「お利口さんになること、すなわち、

聖なる者とされることを目指して行くのが、救われた者の生き方か」と、がっくり来てしまい

ます。なぜなら、「お利口さん」になれない罪人であったからこそ、イエス様に救いを求めたの

です。なのに、信じた後にも行いを求められたら、救われる者にはなれないと思ってしまうから

です。実際の私たちを正直に見るなら、なかなか聖書に書いてある通りの人間になれないのが
現実です。私たちは、罪と言われるものや、悪と言われるものを自分の中から排除して、

聖なる者になろうとしても、出来る訳がないのです。なぜなら、「救われた罪人」だからです。


(転) では、この御言葉はどのように理解するべきでしょうか。それは、「悔い改めに

ふさわしい実を結ぶ」というのは、単なる表面上の行いではなく、「絶対主を第一にして行く

心を表わして行くことだ」ということです。どういうことかと申しますと、私たちは死んだ後、


天に上げられます。そして、その時、始めてイエス様が流して下さった血潮の故に、罪が全部

取り去られるのを味わいます。
なぜなら、罪を天に持って挙がることは出来ないからです。

ということは、この地上で信じたクリスチャンは、罪が贖われたという事実を頂いたので

あって、罪のない人間に変わったということではないのです。ということは、私たちが

救われて、天に行く資格を頂いたからと言って、「お利口さん」になった訳ではないのです。

だからといって、地上で放縦な生活をして良いという訳ではありません。そこには、

救われた者として慎みとへりくだりが必要です。こういう訳で、私たちが、天に挙げられた

時に、罪の性質は取り去られても、罪の心を完璧に忘れ去ってしまうのではありません。

罪人であった時の気持ちや悲しみ、醜さを知っている自分が天に上げられるのです。ですから、

たとえ天に上げられて罪が取り去られた自分であっても、罪人であった自分には変わりありま

せん。逆に、もし天に上げられた時、地上にいた頃のことを全部忘れてしまい、悔い改めに

相応し実を結んだからといって、有頂天になったら、ルシファーと同じになってしまいます。

また、「自分はこんなに努力してきた」という誇りを表すことになってしまいます。そのような

者は、御国には繋がりません。ですから、へりくだった心を持っていなければ、天の御国に

相応しい者とはならないのです。もちろん、地獄に行った人間を上から見て、偉そうに裁く

ことも決して出来ません。むしろ、「一歩間違えたら、自分もあそこにいた人間だ」という

自覚を強く持つのではないでしょうか。ですから、この自覚があるが故に、絶対主を崇め、

へりくだりと感謝の心を持って、天で礼拝することが出来るのです。だから、ここで言える

ことは、「あれをした」、「これをした」という律法主義者が御国に入れられるのではない

ということです。逆に、それも出来なかったという自分の力不足、愚かさ、罪深さを自覚し、

「自分のような者は、天に上げられる資格はない」とへりくだりの心を持っている者こそ、

御国に上げられるということです。


(結) ですから、私たちにとって「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」とは、「まず絶対主を

第一にして行く、へりくだりの心だ」ということです。ピリピ2:12を見ますと、

「恐れおののいて自分の救いを達成して下さい」とあります。この「達成」というのは、

まさに、「罪人の自分に、恐れを持って、まず絶対主を第一にして、ただへりくだって従って

行く心」のことです。その心を持って地上を生き抜いたならば、それが、悔い改めにふさわしい

実となって天に繋がって行くのです。ですから、私たちにとって大切なことは、
「まず絶対主の

国と絶対主の義を追い求めて行く、へりくだりの心を持って、残りの生涯を献身的に全うして

行く」
ということです。これは、決して「あれをした」、「これをした」という表面上のものを

追い求めて行くことではありません。
だから、「自分は一生懸命やってきた」という自負心を

持って天に行ったとしても、絶対主の前には受け入れられません。
どうか、私たちは絶対主に

対するへり下りの従順を最大限に表し、絶対主を第一にして行く生涯を全うしようでは

ありませんか。 
 

 

 


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