人が、自分の罪を知ってイエス様を信じた時、罪人の心の中にもイエス様を信じて歩んで
行きたいと願う霊の心が生まれて来ます。それまでは、ただの肉の本心のみで生き、罪深い
肉の中で悶悶(もんもん)とするだけでした。しかし、イエス様を信じてから二つの心の
本音を持つようになり、この二つの本音が、自分の心の中でいつも「せめぎ合いの戦い」を
起こしているのです。それを聖書では「肉の願うところは御霊に逆らい、また御霊の願う
ところは肉の性質に逆らうのです。こうして二つのものは互いに相逆らい、その結果、あなた
方は自分でしようと思うことをすることができないのです」(ガラテヤ5:17)とあります。
そんな中で、パウロは「御霊によって歩みなさい」(ガラテヤ5:16)と勧めるのです。
しかし、どうすれば御霊によって歩むことが出来るのでしょうか? 二つの心が自分の本心
としてあるのです。それを一方の本心で生きて行きなさいと言うのです。できるのでしょう
か? 「できます。」なぜなら、私たちの内には二つの本心があったとしても、クリスチャン
なら霊の本心で生きることを願うはずだからです。すると、肉の本心(本音)はどうすれば
いいのでしょうか? それは無視して棚上げしていいのです。なぜなら、聖書に「御霊に
従う者は、御霊のことに心を向ける」(ロマ8:5)また、「私たちは肉にあって生きて
いても、肉の性質に従って生きる義務を負っていません」(ロマ8:12)とあるからです。
私たちがEDMの働きをするとき、肉の心の弱さに思いを向けて戦うことができるでしょうか?
絶対に出来ません。敗北するだけです。ですから、「御霊によって歩もう」と願うなら、
「肉の思いを無視して棚上げ」していいのです。この肉の思いは、死ぬまで無くなりません。
死ぬまで肉の思いと同居していかなければなりません。ならば、自分にとって邪魔になる肉
の思いは無視し、棚上げしていくのです。これは、肉の放縦の中に歩めということではあり
ません。御霊によって働きをしていくためには、霊の本心(本音)に心を向けて行かなけ
れば、肉の思いに邪魔されるからです。私たちは、信仰によって、「この肉の性質を十字架
につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)という生き方を、はったりを効かせて
でも、やって行くのです。死んだ肉に脅かされる必要はありません。肉から離れて霊の本根
で生きていくのが、クリスチャンの主にある勝利の生き方です。また、もし肉によって罪を
犯したなら、隠そうとせずに告白して、自分の罪の責任を取っていくのです。この心は大切
です。これが勝利の生き方です。
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