1611年以来、徳川家康によってキリシタン禁止令が発令され、1614年には全国的に
禁止令が出されて行きました。これより以前に、仙台藩の伊達政宗は、自分の側室が難病を
患い危険な状態にあった時、スペインの宣教師ルイス・ソテロの助けを得て奇跡的に癒され、
それを政宗はたいそう喜んで、自分の領地にソテロを招き布教を許していました。
これが東北地方にキリスト教が伝えられる糸口となりました。そして、側室の「お縫殿」も
キリシタンとなり、領民がキリスト教に入信することを許していました。しかし、1620年
以降になると、家光の圧力もあってキリシタンを保護し容認してきた政宗が、突然キリシタン
禁止令を布告しました。それからは、キリシタンの家臣であった支倉常長(7年間に渡って
メキシコ・スペイン・ローマを旅して友好通商条約を結んで1620年に帰国)も国禁を
犯した罪人とされ、「隠れキリシタン」として隠遁(いんとん)します。
又、「後藤ジュアン」は、政宗に請(こ)われてキリスト教の布教と鉄砲組の組頭となって
いたのですが、信仰を捨てることは出来ないと逃亡し、隠れ住んで東北一帯のキリシタン信徒
たちを励まし、地下活動を続けるようになりました。こうした禁教下で、「隠れキリシタン」
の印象と言えば、「これまで臆病で弱々しい生き方のように誤解されてきました」が、彼らは
むしろ、「キリシタンの本質と目的を達成するために、積極的に生きていた人たち」でした。
それは、堂々と殉教する人々に優るとも劣らない不屈の信仰の持ち主で、強い意志と信仰の
エネルギーに燃えていた人々であったからです。なぜなら、単なる自分一人のために隠れて
信じていたのではなく、突然、禁教令が出されても、自分の信念を曲げずに他のキリシタン
信徒たちのために、一命を懸けて励まし、地下活動を続けて行った人々だったからです。
彼らが耐え忍んで信仰と真理を守り抜く姿は、クリスチャンの誇りです。私たちも、これから
の働きのため、優るとも劣らないエネルギーをもって、生涯主に仕えて行きましょう。
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