にいじまじょう
京都、新島襄の墓地の一画に眠っていた熊本バンドのクリスチャンが、五島の楠原教会の
キリシタンの方と出会って、初めて気づいた霊的罠。現代のキリスト者の迷走の原因が
見えて来ました。
それは、日本のキリスト教の禁教政策が解除されたのが明治6年で、それ以後、キリスト教
が合法化され、日本にキリスト教の宣教師が洪水のように押し寄せて来ました。もちろん
プロテスタントの宣教師もたくさん入国して来ました。そして、ヨーロッパ、アメリカの
宣教師たちからもたらされる文明、文化の魅力、そして豊かさが日本人の心を捉えて行き
ました。ちょうど明治7年には、アメリカに密航して宣教師として帰国した新島襄が、
明治8年に京都の地に同志社英学校を設立します。その学生の中に、熊本バンドからやって
来た一人の青年が学びを始めたのです。彼は当時のことを振り返って正直に言いました。
「頭がよければ、何にでもなれる。英語ができれば外国人と対等に渡り合える。そして教会
に行けば、生活が豊かになる。また、外国人と付き合えることで、自分が上に見てもらえる。
そして貧乏から脱出できると思っていた」と言いました。彼はその後、伝道者として働き、
多くの信者の魂を腑抜けにさせてしまったと悔いています。彼がクリスチャンを腑抜けに
させた原因は何でしょうか。それは、キリシタン時代の迫害が止んだ日本で、新たに宣教師
を通してクリスチャンになった人々の求めたのは、「地上の幸せ」でした。キリシタン時代
は「信じることは=死」であったのが、クリスチャンの時代に入ると、信仰に命を懸けると
いう必要はなく、「自分を認めてもらう手段」となって行ったのです。それは、信じること
が死であった時代では、この地上での幸せを求めることは不可能でした。しかし、迫害が
なくなり合法化されていくと、必然的に「信じることは、自分の幸せの追求」が目的となって
行ったのです。ですから、死ぬことは大きな不幸であって、一番「神から見離された者の
不幸」と捉えるようになります。ですから、今日の福音宣教のように、「愛・愛・愛」
「あなたは愛されている」というテーマが、クリスチャン受けしているのです。ここに腑抜け
となったクリスチャンの霊的罠の真実が見えて来ます。今日の時代も、「信仰に命を懸けるこ
とはなく、自分を認めてもらおうとする手段」となっていますので、自分の罪が見えてこな
いのです。
先日、ある大衆伝道者のメッセージを聞きました。そこに、「人間は罪人である」という
言葉は、一言も出て来ませんでした。迫害のないキリスト教は、この地上の幸せを与える
御利益宗教になってしまったのです。私たちの心にも、今この観念が刷り込まれていない
でしょうか? 地上の幸せを求めている者が、「自分が罪100%の人間だ」と認めたら、
この地上で幸せを求めることが出来ません。だから、頭で分っても心で分らないのです。
しかし、この後、人類史上で一番大きなキリスト教迫害がやって来ます。その時、地上の
幸いを求め続けて来たクリスチャンは、ただ失望するだけです。クリスチャンの国籍は
天です。我々は、「地上の命はいつ終えてもいい」と考えなければ、天を目差す純粋なクリ
スチャンとはなれません。あなたは、まだ自分の罪100%を認めることができないのです
か? それは、地上の御利益を無意識に求め、「自分を認めてもらう」ことが信仰の目的と
なっているからです。この霊的罠から目覚めて下さい。
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