「私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました」(詩51:5)
とあるように、クリスチャンであるなら、自分が罪人で、しかも生まれながらに100%罪人
であることを悟っているはずです。ロマ書には、「義人はいない。一人もいない」(ロマ3:
10)とありますし、パウロは「生まれながらに肉に属する者であって、罪の下に売り渡され
た者です。」(ロマ7:14)と言っています。その証拠として、私たちは、自分のしたい善
を行なわず、かえってしたくない悪を行なってしまうような、どうしようもない惨めな者です。
それなのに、叱られた時は、自分のわずかばかりの正しい動機に心を寄せて、素直に謝ること
の出来ない自分を持っています。それは、頭では、100%罪人であると分っていても、1%
の自分の正しさを認めてもらおうとする義が働くからです。ですから、自分の過ちを指摘され
た時、99%の自分の非があっても素直に謝れないのです。もちろん、逆もあります。
99%の自分の正しさがあり、わずか1%の自分の過ちを指摘されたら、私たちの心は強力に
頑なになって素直に謝ることはできません。しかし、100%の罪人なら、その1%の罪も
自分の責任です。それなら当然責任を取って謝らなければなりません。しかし、生まれながら
の罪人は、自分の罪を認めたくないので、「たったの1%位の罪で謝れるか」と反発します。
しかし、イエス様は、100%罪人の人間を探して救うために来て下さったのです。
ですから、その1%の罪でも認めない人を救うわけには行きません。特にクリスチャンなら、
「生まれながらに100%罪人の怒りの器」である自分を知っているはずです。ならば、
99%の正しさがあっても、1%の罪があるなら、自分を義とする肉の心を砕いて、正直に
自分の心の中の1%の罪を認めて「あなたが宣告される時、あなたは正しく、さばかれる時、
あなたはきよくあられます」(詩51:4)と言うべきです。なぜなら、ほとんどが自分の
過ちは1%だと思っていることが、正直になった時、その1%が100%の罪だと分るから
です。
ですから、私たちは、まず自分を正しいとする義を1つでも2つでも砕いて、100%罪人
の自分を悟らされて行くべきです。聖霊の満たしのため、曇らされている心の正直さを取り
戻して、「生まれながらに母は、私を罪ある者(100%)としてみごもった」ことを認めて
行きましょう。
|
|