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2015年8月23日


自分の考えではなく、主の考えに心の重心を置く


ヨハネの福音書15:1~17

(起) 今朝は、「自分の考えではなく、主の考えに心の重心を置く」ことについて、学んでいきたいと思います。

(承) さて、このヨハネの福音書を読んでいくと、「わたしは父から遣わされて来ました」 と か、「わたしは父の御心を行うのです」と、どこまでも父に従順に従われているイエス様の言葉がたくさん出てきます。これらの御言葉を通して分かることは、イエス様は常に「父である絶対主の意向を行おうとして来られた」ということが分かります。 しかし、その従う姿勢は、決して、 ロボットのように聞き従っておられる、と言うのではありません。 それは、あくまでもイエス様ご自身の意志によって、絶対主に従っておられるのです。そのことは十字架につかれる前に、ゲッセマネ園で祈られたイエス様の言葉によって、はっきりと知ることができます。イエス様は、いざ死を目の前にした時、父に言われてここまで来ましたが、死ぬ間際になってやっぱり怖いです「どうかこの杯を取り除けて下さい。」と言葉に出して祈られました。しかし、その後で、「わたしの思いではなく、 あなたの御心のままになさって下さい」と言って、父に従うことを決められました。ですから、イエス様は単なるロボットのような「イエスマン」ではなく、また、父に対するご機嫌取りでもなく、いつも自分の意志をもって、「父に従う」という心に重心を置いて従っておられたのです。




(転) では、私たちも今、自分の意志をもって定めなければならないことは何でしょうか。それは、「聖書が語っていることは全部正しい。だから、そこに自分の考えの重心を置く」ということです。罪人である私たちは、「イエス様の救いが必要です」と、はっきり分かって、イエス様の救いを信じました。ならば、ジョージ・ミユラーさんのように、信じた以上は、どこまでもイエス様の方に心を向け、聖書に書かれてある言葉の通りに信じて従って行くべきです。しかし、「その定めをした」からと言って、生まれながらに持っている肉の思いが消えてしまった訳ではありません。ですから、これまでの経験に中で「何でもあなた方の望むものを求めなさい。そうすれば与えられるでしょう」(15:7)と書かれてある御言葉の通りに、いつも叶えられて来た訳ではありません。「今まで、願って与えられたことなんて、そうめったにないのに、本当に与えられるの?」という肉の思いや疑いを持ってしまうこともあるでしょう。しかし、そう思ったとしても、「いや、この御言葉は真実だ。これは正しい。これは事実だ」と、すぐにそちらに心の重心を置いて考えるようにして行くのです。そして、その上でよく読んでいくと、「あなた方がわたしに繋がっており、わたしの言葉があなた方に留まっているなら・・・」と書いてある通り、「イエス様を信頼する心をいつも持って行くならば、このようになるということか。そりゃあそうだよな」と、信じて行くようになります。また、14:12を見ると、「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそればかりか、更に大きなわざを行います」とありますから、本気でこの御言葉を信じ、この御言葉に重心を置いていくのです。そして、「イエス様が行われたわざを、私も行っていくのだ」という信仰を持って、その当事者になって行くのです。なぜなら、聖書に書いてあることは全部正しいのですから、たとえ、これまでそれを味わって来なかったとしても、そこで一歩も二歩も引く必要はないのです。

(結) 私たちは、これから何が何でもこの生き方を始めて行くのです。なぜならイエス様を信じた人は、聖書を信じたのですから。だから常に、「絶対主の言葉は全部正しいのだ」というところに立って、そこから物事を見て、考えていくのです。 これが、主の考えに重心を置くということです。その時に、自分の考えを引っかけて、自分流でやろうとしてはいけません。私たちは、すぐに自分の頭を使って、「聖書にはこう書いてあるけど、こうした方がいいよな」と考え て、自分で出来る方法でやろうとします。しかし、それは絶対にしてはいけません。どこまでも絶対主に頼り、絶対主の言わんとすることを心に入れて従うのです。そして、それをそのままやった時に初めて、「そういうことか」と見えてくるのです。私たちは100%罪人ですから、この罪人の頭でいくら考えても、答えは出てきません。絶対主の側に立ち、言われるとおりにしていく時 に、前に進んで行けるのです。ですから、自分の頭を使うことをやめ、絶対主の言われる言葉をそのまま信じて行きましょう。それは、媚びへつらうことでもなく、ぺこぺこと頭を下げて、絶対主におもねることでもありません。それは、私たちの信仰のゆえにすることです。100%自分の自由意志を使って、「聖書の言葉は全部正しい。だから、聖書の考えで自分はやっていく。そこに重心を置く」と決めるのです。すべてはここから始まります。どうか、ここに心を定めて、新たな信仰の一歩を踏み出そうではありませんか。


 



 


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