(起) 今朝は、「内なる人の解放」ということについて、学んでいきたいと思います。
(承) さて、イエス様というお方は、聖霊によってお生まれになった絶対主のひとり子です。
ですから、イエス様の内なる人には聖霊さまが住まわれ、その聖霊さまによって、イエス様
ご自身の霊は生き、イエス様と絶対主の心は、いつも一つに繋がっていました。今日お読みした、
「父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにおられようか」というイエス様の言葉は、
まさにその内なる人から出た言葉です。しかし、イエス様が持っておられたのは、その内なる人
だけではありません。外なる人の(肉)も持っておられたのです。それは、人となるために、
母マリヤの肉を受け継いでおられたイエスの肉があったからです。確かにイエス様は、聖霊に
よって、絶対主のひとり子としてお生まれになりました。しかし、一切肉を持っていなかった
というわけではありません。その証拠が、十字架につけられる前にゲッセマネの園で祈られた
言葉の中に、「どうか、この杯をわたしから取り除けて下さい」と言われた言葉から分かり
ます。イエス様は、死に対する恐怖心をお持ちになり、血の汗を流しながら、同じ言葉で3度
も祈られました。これは完全に、イエス様ご自身の外なる人(肉)の思いです。しかし、その
外なる人の思いを持ちながらも、最後には、「わたしの願いではなく、あなたの御心のままに
なさって下さい」と祈ることができたのは、何故でしょうか。それは、恐怖という外なる人の
思いを砕き、その壁を打ち破られ、内なる人の声に従われたからです。その打ち破られた
ところから、「父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにおられようか」と、イエス様の
内なる人の思いが飛び出したのです。
(転) では、次はペテロさんについて見ていきたいと思います。まず13:37を見ると、
ペテロさんはイエス様に対して、「私はあなたのためには命も捨てます」と言っています。
ところが、この時のペテロさんには、御霊の内住がまだありませんでした。ということは、
彼自身の霊は御霊の影響を受けることが出来ず、死んだ状態であり、絶対主と繋がった心では
なかったのです。ですから、彼が言ったこの言葉は、ただ良い子振って、信仰振って、言った
だけにすぎません。彼は、肉に過ぎない者であるにもかかわらず、振ることによってイエス様
に受け入れてもらおうとする思いが、心の中にあったのです。ですから、イエス様は、すぐに
そのことを見破られ、「あなたは、わたしのために命を捨てると言うのですか、あなたは、
今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言います」と、はっきりとペテロに宣告され
ました。結果、その夜、イエス様が捕えられるところを見たペテロは、「もし、イエス様の
仲間だということが知られたら、自分も同じように捕えられて殺される」と思い、「私は知り
ません。何のことか分かりません」と言って、激しく誓って、「自分には関係ない」と言って
しまったのです。これが、ペテロさんの肉の姿です。ところが、そんなペテロさんに対して、
イエス様は甦られた後、「ヨハネの子シモンよ。あなたはこの人たち以上に、わたしを愛し
ますか」と聞かれました。(21:15)この質問の意味は、「わたしを愛する霊の心があるか?
あなた自身の内なる人は、わたしを愛しているのか?」という意味です。先程も申しました
ように、イエス様を知らないと言ってしまった時は、ペテロさんはまだ御霊の内住がありま
せんでしたが、この質問をされた時には、もう御霊を受けていたのです。(20:23)で、
「聖霊を受けなさい」と言われた時に、弟子たちの内に御霊が宿った。)ですから、この時の
イエス様は、御霊を受けた者に対して聞いておられ、ペテロが、「私はあなたを愛します」と
言って、内なる人の思いを外に飛び出させることを待っておられたのです。しかし彼は、
「私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えただけで、内なる人の思いを外に
出すことをしませんでした。それは、彼自身の外なる人が、内なる人をブロックしていたから
です。その証拠に、彼はイエス様からの問い掛けの後で、すぐヨハネを見て、「この人はどう
なのですか」と、自分のことを棚に上げて、人と比較しようとしたのです。これこそ私たちも
よくすることですが、肉の現れそのものです。外なる人のブロックとは、「三度もイエス様を
知らないと言ってしまった。だから、愛しますなんて言えない」という肉の思いです。
ペテロさんは、イエス様から三回のチャンスが与えられましたが、三回とも、内なる人を出す
ことをしませんでした。
(結) このことから分かるように、私たちの外なる人のブロック、バリヤは非常に強力です。
一旦このバリヤが張られてしまうと、それを壊すことはなかなか難しいのです。だから、外なる人のブロックが張られたら、その時はどうしたら良いのでしょうか?その時は、かろうじて聞こえる内なる人の声に耳を傾け、「私は主に繋がっていたいのです。自分には、何かできるものがある訳ではありませんが、私はあなたに心を向けます」と、内なる人の叫びを外に出すのです。すると、その瞬間に、外なる人のバリヤにヒビが入り、そのヒビが入った所の細い隙間から、内なる人が飛び出てくるのです。そのヒビを入れて下さるのは絶対主ですが、私たちの側の意識も必要です。それは、「外なる人に従っていたら自分はダメになる。そんなものに価値なんてないから、砕いていこう」という意識です。すると、私たちの外なる人はだんだん衰えていき、逆に内なる人が強くされていくのです。(第Ⅱコリント4:16)ですから、私たちがいま目を向けるところは、
内なる人だけです。外なる人は砕き、内なる人を外に出して、解放させて行くのです。
これが、私たちのこの地上での生き方であり、イエス様が模範として残して下さった生き方です。どうか、今日から始めていきましょう。
|