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 2015年6月7日    


新しい創造の命で、肉の自分を見て心を変える


ガラテヤ人への手紙6:11~16

(起)6章15節にある「新しい創造の命で、肉の自分を見て心を変える」ことについて学んで

いきたいと思います。


(承) さて、まず6:12を見ると、「あなた方に強いて割礼を受けさせようとしている人々

は・・・肉で見栄を飾りたがっている人たちです」とあります。これはどういう人々かと申します

と、ユダヤ人の場合、絶対主からの正しい戒め(律法)を知っているということに誇りを持って

いましたから、信じた異邦人に割礼を受けさせることによって、「自分たちが律法を守ってきた

ことは正しかったのだ。自分たちはお前たちよりも上なのだ」と、誇りたい気持ちがあったの

です。これは、肉の見栄を飾ろうとする行為です。人は皆、自分の肉を誇りたいと見栄を張ろう

とします。ですから、自分の過ちや罪に対して素直に謝ることができません。

しかし、パウロさんはこの後、「主イエス・キリストの十字架以外には、誇りとするものが、

決してあってはなりません。なぜなら、キリストによって、この世は私たちに対して、十字架に

つけられ、私たちもこの世に対して、十字架につけられてしまったからです」(14節)と語って

います。この御言葉は、私たちにも言えることです。この世は十字架につけられて死んだ世で

あり、私たちとの関係を失ったのです。また、私たち自身も十字架につけられて死んだ者です。

ですから、私たちの肉との関係はなくなったのです。しかし、クリスチャンはイエス様にあって

甦り、天で生きていくことのできる新しい創造の命が与えられました。(15節)ですから、

本来なら地獄で裁かれる人間であったのが、イエス様の贖いによって新しい命の中で生きる者と

されました。ですから、これ以上の幸いはありません。私たちが望みを抱いているのは、

この世に対して死んだので、この世で幸いを得ることではなく、天で幸いを得ることです。

ですから、私たちはもう、「この世で名をあげ、豊かな金持ちになろう」と考える必要はないの

です。すなわち、世で認められる為に生きるのではなく、また、人から認められる為に生きて

いるのではありません。ただ、私たちにとって必要なことは、天におられる絶対主とイエス様

から認められることです。


(転) では、絶対主とイエス様に認められるためには、どうしたら良いのでしょうか。

それは、
「まず罪人が、罪人である」という事実を認めることです。そして、罪を犯した時には、

素直に自分の罪を認めて謝ることです。そのことを、今心で悟ることを求められています。

しかしながら、私たちは、頭では自分が罪人であることは十分、分っているのに、いざ怒られる

と、素直に謝れない自分があります。つい自分を守ったり、怒られることが嫌で逃げたりして

しまうのです。「それは、悪いことだと分っているのに、またやってしまった」という後悔から、

「すねる心」や、「白ける心」、「開き直る心」、「しょうがない」という思いが働くからです。

そういう自分自身を抱え込みながら謝っても、「真実な罪の告白、ごめんなさい」とは、なりま

せん。
ですから、これから怒られた時には、このようにしていきましょう。新しい創造の命を

持った自分が、肉の中にあって怒られている自分の姿を横から見るのです。

そうすれば、怒られている最中(さなか)にあって「そりゃあ怒られても当然だよな」と、客観的に

自分の肉を見ることができませんか? すると、この新しい人が「肉の自分をいくら弁解しても、

罪が帳消しになるわけでもないし、事実が消えるわけでもないのだから、謝るしかないだろ?

肉のお前が謝れないのなら、新創造の命の中にある私が代わりに謝る」と言って、その新しい人

が、「すみませんでした」と謝るのです。この人が、6章15節にある「新しく創造された自分」

です。しかし、
生まれながらの自分は、罪の中に閉じ込められ、罪を犯し、肉の中に浸かって

しまっているので、単なる罪の奴隷になっている自分でしかありません。
そんな自分が、いくら

素直に謝ろうと思っても謝れませんが、イエス様によって贖われ、永遠の命を頂いている自分

なら、もうこの世に対して生きているわけでもなく、自分も死んだのですから、怒られても

プライドが傷つくことはありません。恥しく感じることもなく、「本当にすみませんでした」と

謝ることができるのです。この自分自身がいる現実に、目を留めてください。そして、その自分

を引き出してください。そうすれば、新しい命の自分がいることに気づくでしょう。


(結) ですから、15節にもあるように、私たちにとって重要なことは、新しい創造なのです。

私たちは、イエス様の恵みによって救われました。そして、
新しい命を持った第三者が、自分の

罪深い肉を見ることのできる立場をいただいたのです。
ならば、怒られた時には、この新しい創造

の命を頂いた者として、罪人である自分を見ていけばいいのです。新しい人から見れば、怒られて

いるのは罪人100%の自分ですから、当然のごとく「ごめんなさい」と純粋に言うことができま

す。そして、この
新しい人で祈り、新しい人で聖書を読んでください。新しい自分を発見するで

しょう。
どうか、この新しい創造の命の中で生きて行こうではありませんか。

 


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