(起)新しい命をいただいた者としての生き方について学んでいきたいと思います。
(承) さて、先週も学んだように、私たちはイエス様を信じたことによって、新創造された命
の中に生きる者とされました。それは、アダムの子孫として生まれた罪人の私たちが、イエス・
キリストと共に十字架につけられて死んでしまったからです。そして、イエス様と共に復活の命
に預かり、新しい命をいただいた私たちは、永遠の御国に入って行くことのできるチャンスが
与えられているのです。
ところが、その新しい命をいただいている者たちが、皆、御国に入れるわけではありません。
それは、ヘブル書6:4~8にはっきりと書かれています。「聖霊にあずかるものとなり…堕落
した場合…再び悔い改めに立ち返らせることは不可能だからです」。このような人々は、絶対主
によって裁かれてゲヘナの火で焼かれてしまうのです。「新しい命をもらったら、もう絶対に
滅びることはないのだ」と考えている人たちがたくさんいますが、聖書には、たとえ新しい命を
もらっていたとしても、その新しい命の中で生きなければ、何の意味もないと言われているの
です。ですから、イエス様は、「主よ。主よ。というものが、天の御国に入るのではない」と
言われました。私たちは、この事実をはっきり自覚して、むしろ「自分は新しい命をいただいた
者なのだ」という自覚の中で、生きていく必要があるのです。
(転) では、新しい命を持ったものとして、普段、どのような自覚をもって生きていけばいい
のでしょうか?
実際に普段の生活の中で、わたしたちは新しい命の中で考え、判断しているのかというと、
そうではありません。やはり普段の私たちは、肉を持っていますので、肉に捕われた生活をして
います。なぜならば、私たちは教会から一歩外に出れば、もう肉の世界の真っただ中に入って
行く訳ですから、何か失敗をして怒られると、すぐに「人目を気にして嫌だな」と思って自分を
かばい、イエス・キリストによって死んだはずの古い肉の自分にしがみついてしまうのです。
この肉に属している状態のことを、パウロさんは「幼子」と言いました。(へブル5:13)
要するに、新しい命をいただいているにもかかわらず、その意識を全く持っていないクリスチャン
であって、何も分かっていない赤ちゃんだということです。逆に、「成長した人」とは、どのよう
な人のことを言うのかと言いますと、経験を通して、良い物と悪い物を識別できる人のことです。
(5:14)言葉を換えると、「御霊に属する物と、肉に属する物を識別できる人のこと」です。
私たちは、それらのための訓練が必要です。そして、新しい人で物事を見て、考えていくという
ことを、一つでも二つでも、普段の生活の中に取り入れていくのです。この訓練をしていけば、
私たちはこの地上にあっても、絶対主の御心に適った生き方をしていくことができます。
ですから、少なくとも、古い肉の自分はもう見切っていくのです。普段の生活に戻ると、周りの
未信者は、皆肉の中にあって当たり前の生活に中にありますから、私たちも、つい古い自分が
当たり前のように出てきます。ですから、「新しい人の気持ちになって考えるなんておこがま
しい」という気持ちになってしまうかもしれませんが、それは間違っています。私たちは、もし
できることなら、24時間、新しい人の心で物事を考え、祈りをし、生活していって良いのです。
むしろ、そちらの方が絶対主の前に正しいのです。私たちは今、このようなことができる立場に
置かれているのですから、わざわざ肉に属する自分でいる必要はありません。ですから、肉を
見切って、御霊に属する生き方をして行くべきです。コリントの人たちは、聖霊のバプテスマを
受けていたにもかかわらず、その新しくされた自分で生きようとせずに、なお「律法に従って
生きていくべきだ」と言って、肉に属する生き方をしていました。なぜそうするかといいますと、
肉を見切っていないからです。肉を見切らずに聖霊の満たしを受けても、その後もなおその肉が
強く出てしまいます。すると、せっかくの聖霊の満たしが無駄になってしまいます。
(結) ですから、私たちが聖霊の満たしを受ける前に、最低限、必要なことは何かというと、
自分の肉を見切ることです。そして、肉を見切ることが分かったら、次は努力し、訓練していく
ことです。主に、この体を使ってもらうためには、罪人のゼロのままでは使ってもらえません
から、努力が必要です。私たちは、ゼロだからこそ努力するのです。そして、一つでも二つでも
掴んで、絶対主に使っていただく者となって行くのです。この世の中には、病気で死ぬ人や、
交通事故で死ぬ人がたくさんいますが、同じ「死ぬ」にしても、イエス様の証しのためにこの体
を使っていただき、絶対主の役に立つ者として、この肉の命を終えることができるなら、なんと
幸いなことでしょう。ですから、これから新しい人にあって生きていく、その生き方を訓練して
いきましょう。そして、この中に積極的に入っていこうではありませんか。
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