(起)「救いに関する真理の二面性と、救いにあずかるための心」について学んでいきたい
と思います。
(承) さて、ヘブル書を読んでいきますと、実にはっきりと真理の二面性が記されています。
まず10:14を見ると、「こうして、キリストは一つのささげ物によって、聖くされた者たち
を永遠に全うされたのです」とあります。ここを読むと、「『永遠に全うされた』とあります
から、一度信じたらもう救いを失うことはないのだ」と考える人たちがたくさんいると思います。
これは、真理の一面性です。ところが、10:31節を読みますと、「生ける絶対主の御手の
うちに落ちるのは、恐ろしいことです」とあります。これは、「真理の知識を受けた後・・・」
(26節)とありますから、未信者に対して語っている事柄ではなく、私たちクリスチャンに
対して語っている事柄です。6:4~8にも同じようなことが書かれていますが、これも、
「一旦光を受けて、天からの賜物の味を知り、・・・後に来る世の力とを味わった者たちが、・・・」
(6:4~5)とありますから、クリスチャンに対して語られている事柄です。ですから、
ここを読んで分かることは、イエス様を信じた者の中でも、絶対主に背を向ける者たちがいる
ということです。これが、真理のもう一面です。そして、そのような者たちは、生ける絶対主の
御手のうちに落ちるということです。これが、ヘブル書に記されている真理の二面性です。
(転) では、「絶対主に背を向け、絶対主の御手のうちに落ちる者」とは、どのような人の
ことでしょうか。それは、自分自身を義とし、自分自身を正しいとする人です。ということは、
「自分は罪人である」という自覚を持っていない人です。そのような人には、イエス様の救いは
ありません。なぜなら、絶対主は、ご自分のひとり子であるイエス様に、「お前が行ってこい。
そしてお前の命を差し出してこい」と言って、イエス様をこの地上に送ってくださいました。
絶対主は、自分が罪人であることを自覚し、自分の罪に対して悩み苦しんでいる者を天から
見られ、憐れんで、「救いを与えよう」と願われました。そして、イエス様は罪人を探して
救うために、この地上に来てくださったのです。絶対主は、私たちのためにそこまでしてくだ
さったのです。それなのに、自分自身の罪に対して自覚もしていなければ、悩んでもいない、
苦しんでもいない。逆に、いつも自分自身を義とし、自分自身を正しいとしている。そんな
人間がどうして救われるでしょうか。それは、イエス様の十字架を侮っていることであり、
バカにしていることです。これをクリスチャンがしてしまったら最悪です。なぜなら、「絶対主
は自分のために救い主を送ってくださった」ということを一旦知って信じたにもかかわらず、
それをあえて拒み、否定して、「私には救いは必要ありません」と言って、絶対主に背を向ける
ことだからです。そのことをした瞬間に、その者はゲヘナに行くしかありません。ゲヘナという
言葉は厳しいかもしれませんが、それが現実なのです。しかし、ヘブル書10:39を見ます
と、「私たちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、主を信じ仰ぐ心に立って、いのちを得る者
です」とあります。しかし、なぜ、あえて「信仰を捨てて滅びる者ではなく」と記されてある
のでしょうか。それは、そのような者が現実に起こってくるからです。特に、これから始まる
患難時代では、多くの者が絶対主に言い逆らい、背を向け、信仰を捨てていくでしょう。
現在のクリスチャンの多くは、「患難時代が始まる前に天に引き上げられる」と考えていますが、
そういう人たちがそのまま患難時代に入って行ったら、どうなるでしょうか。「自分たちは、
艱難の来る前に天に引き上げられるはずだったのに、なんでこんな目にあわなくちゃならないの
ですか」と、絶対主に言い逆らってしまうのです。そして、「あんなふうに教えた教会が悪い」
と言って教会の所為にし、自分を義として、絶対主に背を向け続けていくのです。
(結) ですから、私たちは自分の罪を棚に上げて、絶対に自分自身を義とする方向に向かって
はいけません。逆に、自分の思いを引いて、どこまでも絶対主の御心に委ねていく心、そして、
忍耐する心が必要です。(10:36)忍耐がないと、なんだかんだ理由をつけて自分を義とし、
結局は、信仰を捨てて滅びる者になってしまうのです。永遠に全うして下さったイエス様の救い
にあずかることができるのは、最後の最後まで主を信じ、 忍耐していった者たちだけです。
どうか、私たちはこの主を信じ仰ぐ心に立って、いのちを得る者になろうではありませんか。
(10:39)
|