(起)「ロマ書12:1~2の『この体を生きた供えものとして献げる』という生き方をして
いくための秘訣」について、学んでいきたいと思います。
(承) さて、まず、パウロさんがこのロマ書を書いた目的は何かといいますと、「ローマの
聖徒たちに、主を信じ仰ぐ心によって信仰の従順に至らせる」ということです。(1:5、16:
26)「信仰の従順」ということは、「主を信じ仰ぐ心を持って、常に従順に従う」ということで
す。すなわち、「イエス様を信じ、救いを頂いたクリスチャンは、自分を仰いで生きていくの
ではなく、主を仰いで生きていくのだ」ということを伝えようとしていました。そして、パウロ
さんは、その主を仰ぐ心を持った者たちに対して、「あなた方の体を、絶対主に喜ばれる、
生きた、聖なる供え物としてささげなさい」(1節)と勧めています。つまり、「私たちの残され
ている命を、自分のために使うのではなく、絶対主が喜ばれることのために使おうではないか」
ということです。そして、そのために、「自分の心を新たにして、変えられ続けていきなさい」
(2節)と勧めています。これが、パウロさんがロマ書で語っているメッセージの結論です。
(転) そこで、「あなた方の体を、絶対主に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として献げて
行くために、自分の心を新たにして、変えられ続けていきなさい。」とありますが、「新たに
する」とは、どういうことかを考えてみたいと思います。私たちは、「心を変える」というと、
徐々に変えていく、いわゆる「改善していくこと」だと思いがちですが、それは間違っています。
ここでパウロさんが言っている「心を変える」とは、たとえば、何か失敗をして怒られた時、
私たちは、「次からは怒られないようにしていこう」と思って、反省し、改善していこうとし
ますが、果たして反省したら、「次からは絶対に同じ過ちは犯さない」と言い切れるでしょうか。
また、本当にそのように自分自身を改善していくだけの力があるのでしょうか?
「いいえ、私たちには、全くありません。」改善する力が私たちにあったら、絶対主はイエス様
を送る必要はなかったでしょう。それなのに、どこまでも自分の能力に期待し、自分を当てに
して、空元気(からげんき)を出して自分を変えて行こうとします。私たちは、いつもそこで
失敗をするのです。そんなところに、一つも変化は起こってきませんでした。では、変化を起こす
ためには、どうしたら良いのでしょうか。それは、怒られた時に、「怒られている自分を、
横から、第三者の目で見ることです」それによって、罪人が怒られるのは当然だと分かります。
すると、「自分は100%罪人そのもので、何もできないゼロの人間だ。」と認めれた上で、
ただ、「すみませんでした」と謝っていくことができるのです。すると今度からは、「自分は
ゼロで、自分を少しも当てにできない」ことが分ってきますから、本気で「主よ。助けて下さい」
と言って主を仰ぎ、主の助けを受けて一生懸命やっていこうとします。この心こそが、「自分の
心を新たにすることによって」(ロマ12:2)と言う御言葉の意味です。私たちは、ここから
しか変わっていきません。もし、自分自身に頼って何かできるのなら、イエス様が十字架にか
かって死なれる必要はありませんでした。実際自分自身の力では何もできず、自分を改善する
こともできない人間ですから、イエス様が十字架にかかって罪の償いをして下さったのです。
だから、絶対主の前に、無条件に罪人です。この事実を、自分自身の心の土台にしてみて下さい。
そうすれば、もう罪人の自分をかばおうとはせず、潔くへりくだっていくことができます。
そして、怒られた時には、「そのとおりです」と認めて責任をとって謝ることができるのです。
すると、次からは全く反対の方向に向かう自分が出てきます。これが、絶対主が私たちに教えて
下さった「心を変える」方法です。
(結) ですから、もう一度、ロマ書3:20節を読み直して、「自分は、『あれをやり
ました。』、『やっています。』なんて言えない。逆に、『やろうとすれば』罪の意識がます
だけです」という事実を認めて下さい。私たちは、皆、生まれながらに罪人です。詩篇51:5節
に『ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私を身ごもりました。』とあります。
ですから、「生まれながらの罪人は、ゼロである」ということが、当たり前で、決して誇ることの
できない者です。それが事実なら、「自分は『できる』と思っていたことさえも、主の前に恥ず
かしいことだ」ということを自覚すべきです。すべてはそこからです。その土台に立って初めて、
私たちは「心を変えていく」ことができます。そして、12:1節にあるように、絶対主に喜ばれ
る供え物となる秘訣は、「まず、自分が100%罪人であることを悟り、100%主を仰いでいく
所から始まる」ということを悟り、この土台に立って信仰の従順の道に、歩み始めようでは
ありませんか。
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