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 2015年5月24日    

『御霊の方向に自分の心を向ける』


ローマ人への手紙7:13~8:11

(起)「御霊の方向に自分の心を向ける」ということについて学んでいきたいと思います。

(承) さて、まず6章を見ていくと、「信仰によって義とされた者の立場」について、パウロ

さんは語っています。すなわち、「イエス様が律法を全うして下さったことによって、私たちを

律法から解放して下さった。だから、もう律法によって罪を責められることはない。それだけで

なく、
私たちのすべての罪の償いをイエス様がして下さったから、私たちは罪から解放されて

いる
」という内容です。そして、「この立場をいただいている者だから、この立場を喜んでこれ

から生きていきなさい。」そして、
「自分自身と、その手足を義の器として絶対主にささげな

さい。」
(6:12~13)と語り、その生き方を勧めています。
 
ところが、現実には、私たちはイエス様を信じた後でも、肉がありますので、肉を持っている

以上、罪は出てきてしまいます。すると、「結局は何も変わっていないじゃないか」という責め

が来て、罪人の現実をもう一度意識し始めるのです。だから、クリスチャンは、罪から解放された

自分と、未だ罪の虜になっている自分の二面性に気づいて、苦しんでいくのです。だから、パウロ

さんも7章24節で、「私は、なんという惨めな人間なのでしょう。いったい誰が、この死の

体から、私を救ってくれるのでしょうか」と言っています。しかし、8章に入ると、一つの希望

を見出すことが出来ます。それは、「肉に従って歩まず、御霊に従って歩むなら、決して罪に

定められることがない」ということです。特に、11節を見ると、「もし、御霊があなた方の内

に住んでおられるなら、・・・、あなた方の死に定められた体も、生かして下さいます」とあり

ます。私たちはここを読むと、「自分たちはこんな肉を持っている者だが、御霊が住んでいれば、

御霊にあって歩んで行くことができる。そうすれば、罪に定められることはないのだ」と軽く考え

てしまいますが、それは正しくはありません。御霊が住んでいるだけでは、自動的に御霊によって

歩めるわけではないのです。それは、私たち自身が、御霊に心を向けていかなければ実現しない

ことです。ですから、この御言葉は、「自分の心を御霊の方向に向けていくなら、自分の霊は

生き、死ぬべき体も生かされていく」と理解するのです。

(転) では、自分の心を御霊の方向に向けていくために、必要なことは何でしょうか。

それは、
「自分の肉の力はゼロだ」ということを悟ることです。このことが分かって肉を当てに

しないなら、
「自分の肉は何の役にも立たないから、見切って、これからは霊的な心で判断し、

御霊の助けによって歩んでいこう」という気持ちになる
のです。そこから、御霊の方向に自分の

心を向けていく歩みが始まります。逆に、自分の肉に頼って頑張るのが正しいと思っている人は、

「自分の力で出来る」と思っているため、いつまでも肉の努力に向かい、肉の方向に心を向けて

いくのです。
ところが、8章3節を見てみると、「肉の性質の故に無力になったため・・・」と

あるように、この肉は「無力」で、何もなしえないということです。この「無力」という言葉の

ギリシャ語は、「病気」という意味が含まれています。私たちは、生まれながらに病気の人間

ということです。
ですから、肉で一生懸命頑張っても、病気ですからどうにもなりません。

それなのに、「自分の努力を受け入れてもらおう」という考え方は、生まれながらの人間の考え

であって、罪人にとって、絶対主に通用するものではありません。生まれながらに病気では、

何も出来ないからです。それが理解できたら、私たちは常にへり下って、絶対主に頭を下げ、

「よろしくお願いします」と言って、100%絶対主の力に頼り、絶対主の助けに預かっていく

だけではないでしょうか。
自分はゼロであり、「自分の中からは何も出てこない」ということが

分かるから、「主よ、なんとかお願いします」と、頭を下げながら一生懸命やっていく努力は

正しいのです。


これが、「霊的な判断であり、御霊の助けによって歩んで行こう」ということです。

(結) ですから、私たちはまず、「自分は生まれながらに罪人で、病気の人間であり、ゼロ

なのだ」ということを自覚し、その事実を正直に自分の心に結びつけなければなりません。

そして、この「自分自身はゼロである」と悟ることは、私たちの信仰の土台です。そこを、未信者

にだまされてはいけません。未信者の世界では、「私はゼロで、何も出来ない者です」という

気持ちを持っていたら、バカにされ排除されていきます。でも、絶対主は違います。絶対主は、

自分はゼロだと分かっている者に、「わたしからの助けを受けて行きなさい」と言われます。

なぜなら、そういうゼロの人間を救うために、イエス様を送って下さったからです。これが、

絶対主と私たちとの関係です。どうか、このへり
くだった心から始めて行こうではありませんか。

「自分自身はゼロである」ということを心に結びつけ、この土台に立ちましょう。この考えに

立つと、「霊的な方向に心を向けて、判断して生きて行こう」
という気持ちが生まれ、その歩み

が始まります。この心を持って、絶対主の前に歩み始めましょう。


 


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