(起)「御霊の方向に自分の心を向ける」ということについて学んでいきたいと思います。
(承) さて、まず6章を見ていくと、「信仰によって義とされた者の立場」について、パウロ
さんは語っています。すなわち、「イエス様が律法を全うして下さったことによって、私たちを
律法から解放して下さった。だから、もう律法によって罪を責められることはない。それだけで
なく、私たちのすべての罪の償いをイエス様がして下さったから、私たちは罪から解放されて
いる」という内容です。そして、「この立場をいただいている者だから、この立場を喜んでこれ
から生きていきなさい。」そして、「自分自身と、その手足を義の器として絶対主にささげな
さい。」(6:12~13)と語り、その生き方を勧めています。
ところが、現実には、私たちはイエス様を信じた後でも、肉がありますので、肉を持っている
以上、罪は出てきてしまいます。すると、「結局は何も変わっていないじゃないか」という責め
が来て、罪人の現実をもう一度意識し始めるのです。だから、クリスチャンは、罪から解放された
自分と、未だ罪の虜になっている自分の二面性に気づいて、苦しんでいくのです。だから、パウロ
さんも7章24節で、「私は、なんという惨めな人間なのでしょう。いったい誰が、この死の
体から、私を救ってくれるのでしょうか」と言っています。しかし、8章に入ると、一つの希望
を見出すことが出来ます。それは、「肉に従って歩まず、御霊に従って歩むなら、決して罪に
定められることがない」ということです。特に、11節を見ると、「もし、御霊があなた方の内
に住んでおられるなら、・・・、あなた方の死に定められた体も、生かして下さいます」とあり
ます。私たちはここを読むと、「自分たちはこんな肉を持っている者だが、御霊が住んでいれば、
御霊にあって歩んで行くことができる。そうすれば、罪に定められることはないのだ」と軽く考え
てしまいますが、それは正しくはありません。御霊が住んでいるだけでは、自動的に御霊によって
歩めるわけではないのです。それは、私たち自身が、御霊に心を向けていかなければ実現しない
ことです。ですから、この御言葉は、「自分の心を御霊の方向に向けていくなら、自分の霊は
生き、死ぬべき体も生かされていく」と理解するのです。
(転) では、自分の心を御霊の方向に向けていくために、必要なことは何でしょうか。
それは、「自分の肉の力はゼロだ」ということを悟ることです。このことが分かって肉を当てに
しないなら、「自分の肉は何の役にも立たないから、見切って、これからは霊的な心で判断し、
御霊の助けによって歩んでいこう」という気持ちになるのです。そこから、御霊の方向に自分の
心を向けていく歩みが始まります。逆に、自分の肉に頼って頑張るのが正しいと思っている人は、
「自分の力で出来る」と思っているため、いつまでも肉の努力に向かい、肉の方向に心を向けて
いくのです。ところが、8章3節を見てみると、「肉の性質の故に無力になったため・・・」と
あるように、この肉は「無力」で、何もなしえないということです。この「無力」という言葉の
ギリシャ語は、「病気」という意味が含まれています。私たちは、生まれながらに病気の人間
ということです。ですから、肉で一生懸命頑張っても、病気ですからどうにもなりません。
それなのに、「自分の努力を受け入れてもらおう」という考え方は、生まれながらの人間の考え
であって、罪人にとって、絶対主に通用するものではありません。生まれながらに病気では、
何も出来ないからです。それが理解できたら、私たちは常にへり下って、絶対主に頭を下げ、
「よろしくお願いします」と言って、100%絶対主の力に頼り、絶対主の助けに預かっていく
だけではないでしょうか。自分はゼロであり、「自分の中からは何も出てこない」ということが
分かるから、「主よ、なんとかお願いします」と、頭を下げながら一生懸命やっていく努力は
正しいのです。
これが、「霊的な判断であり、御霊の助けによって歩んで行こう」ということです。
(結) ですから、私たちはまず、「自分は生まれながらに罪人で、病気の人間であり、ゼロ
なのだ」ということを自覚し、その事実を正直に自分の心に結びつけなければなりません。
そして、この「自分自身はゼロである」と悟ることは、私たちの信仰の土台です。そこを、未信者
にだまされてはいけません。未信者の世界では、「私はゼロで、何も出来ない者です」という
気持ちを持っていたら、バカにされ排除されていきます。でも、絶対主は違います。絶対主は、
自分はゼロだと分かっている者に、「わたしからの助けを受けて行きなさい」と言われます。
なぜなら、そういうゼロの人間を救うために、イエス様を送って下さったからです。これが、
絶対主と私たちとの関係です。どうか、このへりくだった心から始めて行こうではありませんか。
「自分自身はゼロである」ということを心に結びつけ、この土台に立ちましょう。この考えに
立つと、「霊的な方向に心を向けて、判断して生きて行こう」という気持ちが生まれ、その歩み
が始まります。この心を持って、絶対主の前に歩み始めましょう。
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