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2015年6月28日


新しい命をいただいた者として

第Ⅰヨハネ3:1~12


(起)第Ⅰヨハネの罪を犯し続けないという御言葉の意味を考え、クリスチャンの本来の

生き方について学んで行きたいと思います。


(承) さて、まず第Ⅰヨハネ2:1を見てみると、ヨハネさんがこの手紙を書いた目的が

書かれています。それによると、「これらの事を書き送るのは、あなた方が罪を犯さないため

です」とあります。ですから、私たちは、「自分は罪を犯さない人間にならなきゃいけない。

クリスチャンはその生き方をしていくべきなのだ」と思ってしました。ところが、ここをよく

読んでいきますと、この「罪を犯さない」というのは、アオリスト形(過去形)で書かれている

ことが分かります。それは、
既に罪を犯さない者とされているため」という意味なのです。

要するに、「私たちはイエス様と共に、既に死んでしまった人間ですから、罪を犯そうと思って

も犯せない。そういう立場をもらいました」ということです。しかし、「あくまでもアオリスト形

は、現在の状態の如何に関わらず、キリストによって頂いた立場」ですから、現実に罪を犯さ

ない人間になるのは、イエス様が来られた時です。「キリストが来られた時に、キリストと同じ

性質になる。」(第Ⅰヨハネ3:2)とありますから。それまでは、私たちはこの罪の肉を

持っていますから、「罪を犯さない者となった」と言われても、やっぱり罪を犯してしまう中に

置かれています。


(転) では、このことを理解した上で、3章の「誰でもキリストにあるものは、罪を犯し続け

ません
」という御言葉を考えて行きたいと思います。9節では、「すべて絶対主から生れた者は、

罪を犯し続けません。なぜなら、絶対主の種(御霊さま)が、その人の内に留まっているから

です」とあります。この
罪を犯し続けませんは、現在形です。ですから、今現在の生活の

中で、私たちは罪を犯し続けない者となっていくということです。これは、どのように理解して

いけば良いのでしょうか?「罪を犯し続けない」とは、罪人が罪を犯しても、その罪の責任も

取らず、罪の告白もしないと言うことです。ですから、ここに書いてある「罪」というのは、

「罪人が、罪を犯していないが如くに自分を誤魔化して、自分の身を守る卑怯な行為」のこと

です。なぜなら、罪の告白をせず逃げて行くからです。例えば、私たちは、失敗をして怒られる

とすぐ弱気になるし、もう怒られたくないと思うと、つい自分を守る方向へ向かって行きます。

この行為が、私たちの「罪」です。そんな時、自分の犯した罪は勇気を持って告白し、責任を

取っていくのです。そして、「自分の弱気なところを強気に転じて、もう一回仕切り直しだ。

イエス様に頼ってやっていくぞ」と、
自分を惜しげもなく(なげう)って強気に転ずるのです。

「この擲つとは、たとえまた失敗をすることがあっても、また怒られることがあっても、もう

自分を守らない」
ということです。これが、ここで言っている罪を犯し続けないということ

です。おそらく、ほとんどの人は、今までこの経験をしてきていないと思います。私たちは、

失敗をして、怒られたら、弱気な気持ちになり、いつもその中に逃げ込んで、「もうこれ以上

求められたくない」という気持ちになって逃げ出すからです。そして、自分の罪をかばってき

ました。それを子供の頃から、習慣的に為し続けて来たのです。しかし、それはもう止めま

しょう。なお、それを為し続けていくなら、
罪を犯し続けて行く世界に入り込んで行くこと

だからです。確かに、私たちがこの地上で肉体を持っている以上、罪人である自分と、弱い自分

は変わりません。しかし、その弱さの中に自分の意識を向け続けていたら、臆病になって何もで

きなくなってしまいます。そして、最終的には悪魔の餌食となって、悪魔が行くところに自分も

行くことになってしまうのです。だから、たとえ失敗をして怒られたとしても、失敗の責任を

取って、そこで、「もう一回仕切り直しだ。イエス様に頼ってやっていくぞ。絶対に、自分の

弱さに逃げ込むわけにはいかない」と強気に転じて行く、この心が必要なのです。これが、

罪を犯し続けない」ということです。


(結) この生き方こそ、私たちクリスチャンの本物の生き方です。人間はとにかく自分中心

ですから、自分の思い通りにならないとすぐ逃げ出します。しかし、私たちは、逃げて自分の

罪の中に留まって、何か解決できたでしょうか?それより、心を転じて、「そこに留まってい

たら、本当に自分は罪を犯し続ける者になってしまう。主にあって心を変えます」と言って、

思い切って一歩を踏み出すのです。それは、主にあってすることですから、
単なる強がりでは

ありません。
そうしたら、主はその者を放っておかれず、助けて下さいます。なぜなら、イエス

様が私たちのために死んでくださったのは、私たちが罪を犯さないためだからです。

(第Ⅰヨハネ2:1~2)これがヨハネの手紙のメッセージであり、絶対主からの戒めです。

私たちはこの戒めを、心を砕いて受けとめ、この生き方の中に自分の心を定めて行こうではあり

ませんか。そして、これで良いのだということを、味わって行きましょう。

 


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