(起)イエス様のゲッセマネの祈りを通して、「肉を退け、霊の方に心を向ける」ということに
ついて学んでいきたいと思います。
(承) さて、私たちがここを読んで分かることは、イエス様は十字架につかれる前、とても
怯えておられたということです。 34節では、「わたしの魂は、絶望のあまり死ぬほどです」と
まで言っておられますから、この時、イエス様の心は、絶望を味わうほど苦しい状況の中にあった
ということが分かります。荒野でサタンの誘惑にあわれた時には、全く肉の影響を受けずに、
毅然としておられたイエス様ですが、そのイエス様も、死を目の前にした時、恐怖心を抱かれ、
怯え、苦しみもだえられたということです。それは、贖いの死を味わうことは、ハデスにまで行く
ことだったからです。しかも、この怯えや苦しみの肉の感情は、すぐに消え去ったわけではなく、
三回も祈らなければならない程のものだったのです。相当ご自身の肉と戦っておられたイエス様の
様子がよく分かります。ところが、三回祈られた後に、イエス様の気持ちはガラッと変わり、
41節~42節を見ると、「時が来ました。・・・立ちなさい。さあ行こう」と言われたのです。
イエス様は、何故そのように言うことが出来たのでしょうか。それは、ご自身の肉の思いを
ことごとく退け、肉から離れて、「これは父の御心ですから、従います」と、御自分の心を定め、
意志で霊の側にはっきりと立たれたからです。
(転) では、普段の私たちは、どのようにしているかと言うと、私たちは、生まれながらの肉の
思いを退けることなく、そこに留まり続け、霊の側に立つ戦いをせず、あえて肉の中に御言葉や
霊的な考えを入れて、「肉を改善すること」によって、 勝利を得ようとしています。しかも、
「肉を改善することによって、主の御心に適った人間になっていくことができると思い、それが
クリスチャンの正しい生き方だ」と思っています。しかし、それは間違っています。なぜなら、
私たちの生まれながらの肉の性質は100%罪であって、いくら変えようと思っても変えられない
ものだからです。私たちが生まれながらに受け継いでいるアダムの肉の性質は、「100%罪」で
あり、それは地獄の裁きに合うしかない者です。もし、それを改善して霊的な者になれると言うの
なら、イエス様がわざわざこの地上に来られる必要はなかったでしょう。私たちの生まれながらの
肉は、 改善して無くすことは絶対に不可能なものです。たとえ改善しているように見せかけた
としても、罪人である自分自身は変わりませんから、それは、見せかけ(偽善)にすぎません。
人間の肉は100%罪ですから、その肉では、絶対主の前に一つも通用しないのです。いくら
動機が正しくても、肉でやっている以上は罪の行為ですから、絶対に受け入れられません。
では、私たちはどうしたら良いのでしょうか。それは、自分自身の肉を改善していくのでは
なく、肉を見切って肉から離れ、霊の方に心を向けていくことです。確かに、私たちの内には、
肉と霊の二つの心がありますが、いざとなったら肉を退け、パッと霊の方に心を向けることです。
それは決して偽善ではなく、それが正しいのです。イエス様は、ゲッセマネの祈りの時、それを
なさいました。イエス様は、「絶望のあまり死ぬほどです」と言われた後、地にひれ伏し、
「どうか、この杯をわたしから取り除けて下さい」と、繰り返し祈り続けました。しかし、「最後
までその思いを通されたか」というと、そうではありません。 最終的には、完璧にご自分の肉
を退け、「父の御心に従います」という道にはっきりと立たれたのです。ですから、私たちも、
この生き方を具体的に始めていくべきです。例えば、怒られた時、確かに初めは「嫌だな」と思い
ます。しかし、その途中で、「100%罪人だから、怒られても当然だ」と思って肉を引き、心
を開いて明るい心にして相手の話を聞くと、自分が怒られている意味がよく分かってきます。
すると、怒られたことが、かえって嬉しくなるのです。私たちは普段は世におり、世の人と付き
合っていますので、どうしても世の人の肉の考えの中に浸り切ってしまいます。ですから、世の中
では肉が反応して考えてしまうのが当然のようになってしまいます。しかし、それは間違って
います。絶対主にあって生き始めたクリスチャンなら、どこにあっても霊的な判断で考えていくの
が正しいのですから、改めていく必要があります。その肉のやり方を教会に持ち込めば、当然
怒られます。でも、普段から当たり前のようにしてやっているやり方ですので、つい「何でいけ
ないの?」という気持ちが起こってくるでしょう。そこで、私たちは聞き方を変えるのです。
「自分の肉を怒られているのだから、100%罪人の自分は怒られて当然だ。だから肉の反応は
退けて聞こう」と、心を変えて顔を明るくして聞くのです。すると、霊的な心で話を聞くことが
出来ますから、気持ちは晴れ晴れします。逆に、顔を暗くするということは、100%罪人の肉を
守り、肉を反省し、改善しようとしていることになりますから、それは間違っているので、
自分の意志で即座に気持ちを変えるのです。
(結) 私たちは、絶対主から「素のままの状態で、わたしの初穂となってほしい」と言われたの
ですから、肉を退けて霊の心に立った時、初めて初穂になれるのです。なぜかというと、肉を
退けて心を霊の方向に向けていくことは、肉に捕われていないということですから、それは、
サタンに立ち向って勝利したことになるのです。私たちは、この戦いを地上にいる限り、し続けて
行きます。そして最後に殉教する時は、もうこの肉を脱ぎ捨てる時ですから、「どうぞ、この肉の
体をお使い下さい」と言って、明け渡せば良いのです。どうか、この戦いをし続け、最後まで主の
御心に従っていきましょう。
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