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 2015年4月26日    


『肉と御霊を区別して生きる』


マルコの福音書8:27~38


(起)「クリスチャンの中にある肉と御霊の区別をし、御霊によって生きる」ということについて、

学んでいきたいと思います。

(承) さて、今日お読みしたところで、イエス様は弟子たちに対して、「あなた方は、わたしを

誰だと言いますか」と聞かれました。その時、真っ先にペテロが「あなたこそキリストです」と

答えています。このキリストというのは、ヘブル語では「メシヤ」と言い、「旧約聖書の中で預言

されている救い主、ユダヤ人の解放者、国を再興してくださる方」という意味です。ところが、

イエス様は、ペテロのその告白を聞いた後で、「わたしはこれから多くの苦しみを受け、人々から

拒絶され、殺されます」と言われました。これを聞いたペテロはイエス様を諫め始め、「メシヤに

そんなことが起るはずがありません。メシヤが死んでしまったら、どうやって国を解放するの

ですか?そんなことがあってはなりません」という思いを表しました。このペテロの考え方は、

流れとしてはおかしくありません。しかし、これは
「人に心を向けた正論」であって、「絶対主に

心を向けた正論」ではありません
でした。なぜなら、旧約聖書の中には、「メシヤ」というお方に

ついては、はっきりと預言があり、「メシヤは、私たちのために苦しみを受け、傷を負って殺され、

贖い主となられる」(イザヤ53:4~5)とあります。しかし、ペテロは律法学者ではなかった

ので、それだけの知識を持ってはいませんでした。ですから、「救い主キリスト、解放者である

なら、死ぬわけがない。死んだら解放者になれないではないか。そのためなら、自分も命をかけて、

イエス様をお守りします。」と考えてイエス様を諫めたのです。だから、「モーセがエジプトの

苦役の中から解放したように、自分たちもローマ帝国の圧政から解放されるのだ。メシヤは、自分

たちの国を再興して下さる方なのだ」という期待感だけに心を向けていました。この考え方はペテロ

にとって正論であり、イエス様を諫める方向に向かった原因です。しかし実は、その方向に向かわ

せようと後押しするのが、サタンの働きです。だから、イエス様は「サタンよ。引き下がれ」と

言われ、「あなたは絶対主の方に心を向けず、人の方に心を向けている」と言われたのです。

そして、その後イエス様は、「誰でも、わたしについて来たいと思うなら、自分を徹底的に否定

して、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われました。これを分りやすく言い

換えると、「肉の考えを全部否定して御霊によって考え、自分の命を懸けて従って来なさい。」

ということでした。


(転) では、自分自身の肉の考えを否定するには、私たちはどうしたら良いのでしょうか。

多くのクリスチャンの場合、肉と御霊がゴチャ混ぜになっていて、何が肉の考えで、何が御霊の

考えなのか分らないまま、信仰を妨げる肉に敗北してしまうのが、現実です。なぜなら、その肉の

性質は、生まれながらの自分自身と一体化しているからです
。ですから、まず私たちがしなければ

ならないことは、先祖代々から受け継ぎ、自分自身と一体化されている肉の流れを断ち切り、肉と

御霊の区別をすることです。しかし、その区別が出来ると、肉による古い自分は、無くなって

しまうというわけではありませんが、「肉に対して、自分は第三者になります。」すると、その

古い人を客観的に見ることが出来るようになります。そしてそれによって、
自分の肉を嫌い、

徹底的に否定して退けていくことが出来る
のです。私たちには、生涯この戦いが必要です。そして、

この事を理解した上で、ロマ書6:6を見ると、その意味がよく分って来ると思います。

「私たちの古い人は、キリストと共に十字架につけられました」とあります。これはアオリスト形

で書かれていますから、
「私たちの古い人は死んだ」というのは、現在の自分自身の状況如何に

関わらず、過去にあって行われた真実な事柄であると飲み込めてきます。
また、ロマ書8:12を

見ると、「私たちは肉にあって生きていても、肉の性質に従って生きる義務を負っていません」と

あります。ですから、私たちは肉にあってこの地上で生きていますが、その自分の肉に対して第三者

となって、客観的に見て良いのです。
それは、偽善的なことではありません。むしろ、それが出来

て、初めて私たちは肉の性質を自分の意志で否定し、御霊によって歩んでいくことが出来るのです。


(結) ですから、今回お読みしたマルコ8:32節のペテロの発言は、肉と御霊の区別が出来て

おらず、人(肉)の方に心を向けることしか出来なかった事で、イエス様のお叱りがあったのです。

それは私たちも同じです。今まで、御霊の方に心を向けたくても、向けられない中にありました。

ところが、
肉と御霊を区別することによって、その肉を嫌って退け、御霊の方に心を向けて生きて

いくことが出来るようにされる
のです。ですから、先祖から受け継いでいる肉の流れ(アダムから

の流れ)を、どんどん断ち切っていくと良いでしょう。もし自分で出来なかったら、祈ってもらう

ことが大切です。これからは、
自分の信仰の妨げになる肉から、どんどん離れていきましょう。

そして、御霊にある新しい人の中で生きていく道に向かって行くのです。
これが私たちクリスチャン

の生き方です。 
 


 


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