(起)「絶対主の御心を確信して、悪魔に立ち向かって行く」ということを、学んでいきたいと
思います。
(承) さて、今朝は先週の通読の中から、イエス様が行われた御業について書かれている御言葉
をピックアップしてお読みしました。(4:35、4:40、5:28、5:36、6:5、
6:37、6:50、7:27~28、7:32~34) 一つ一つパターンは違いますが、
共通して言えることは、イエス様は、すべて父である絶対主の御心の中で事を行っておられる
ということです。例えば、4:35から見ていきますと、イエス様と弟子たちが向こう岸へ
渡ろうと舟を漕ぎ始めた時、激しい嵐に遭ってしまうという場面が出て来ます。波が舟の中に
打ち込んで来て、水があふれてしまうほど大変な状況の中にありました。しかし、イエス様は
その時どうしておられたかというと、枕をして眠っておられたのです。私たち人間は、自分の目の
前でそのようなことが起ると、その瞬間に、「溺れて死んでしまうのではないか」と恐れを抱き、
不安になってしまいます。ところが、イエス様は少しも心配しておられず、40節では、「なぜ、
そんなに怖がるのですか。どうして信じる心がないのですか。」と言われたのです。イエス様は、
なぜそのように言われたのでしょうか。それは、イエス様が全てのものの、創造主であられ、
自然に対して絶対的な主権をもっておられたからです。その信頼が弟子達にあったならば、怖れる
ことはありませんでした。この主の御心を知っていたら、「この舟は絶対に沈まない。この嵐に
よって、何も問題が起ることはない」という確信を持つことができたはずです。これが絶対主の
御心の中にあるということです。ならば、怖れることはありません。また、舟が沈むことは絶対に
ありませんから、イエス様は安心して眠っておられたのです。また、5:25から見ていくと、
十二年間も長血を患っている女性の話が出て来ます。彼女は、「この病気を治して下さい」と、
直接イエス様にお願いした訳ではないのですが、「イエス様の衣に触りさえすれば、絶対に治ると
信じていました。」だから、イエス様は治して下さるという行動があったのです。それは彼女が、
頭で勝手に思い込んでいたのではなく、心の中にはっきりと確信を持っていたからです。それは、
彼女の心の中に祈りがあって、その祈りを通して、「イエス様に直してもらいなさい」と、絶対主
から答えをもらっていたからです。だから、彼女は「人から何を言われようが、イエス様に触れば
いいんだ」と思えたのです。そして、実際にイエス様の衣に触って癒されました。
このように、絶対主の御心は必ずそのとおりになります。ですから私たちは、一度絶対主の御心を
確認したなら、もう迷うことも心配することもありません。確信を持って、その道に向かって
進んで行けば良いのです。
(転) では、私たちに対する絶対主の御心とは何でしょうか。それは、以前から言われていると
おり、患難時代に入り、獣の前で証しをして、殉教を全うすることです。このことは、絶対に揺る
ぎません。今まで秘められていた黙示録の内容もはっきりと解き明かされ、絶対主からは、
「あなた方は、勝利を得る者となるのです」という、お言葉までいただきました。ですから、
私たちが絶対主の御心を、明確に教えていただいた者たちであるならば、私たちは残りの生涯を、
この絶対主の御心の中に生きていくべきです。私たちの教会では、この20年間いろいろなことが
ありましたが、そのしばらくの苦しみは、この後に私たちが不動の者とされ、悪魔に立ち向って
いくために必要なものだったのです。(第Ⅰペテロ5:9~10)
私たちは、この使命に召されています。これが絶対主の御心であり、変わることはありません
ので、私たちはこの御心から逃げてはいけません。これからは、「主を仰ぐ心に堅く立って、悪魔
と戦っていく」のです。たとえ、自分の内に働く悪魔を追い出し、正気に戻されたとしても、
悪魔の妨げの声がなくなるわけではありません。私たちがこの地上にいる限り、悪魔は背後から
声をかけてきます。ですから、「私たちの戦いは、血肉の戦いではなく、暗闇の支配者、天の領域
にいる悪の霊に対する戦いです。」これが私たちの本当の戦いです。この戦いに対して、自分たち
が恐れて、一歩も心を引いていてはいけないのです。
(結) 私たちは、絶対主の御心がこのように教えられ、はっきりと分ったのですから、たとえ
命を失うことがあっても、「もとより、この命は主に捧げています」という心を持って、この世を
去るまで雄々しく戦っていくのです。しかし、私たちだけが、苦しい中を通って行くわけではあり
ません。昔、この地上に生きていた全世界の兄弟たちも、悪魔と戦い、同じように苦しみにあって
死んでいったのです。(Ⅰペテロ5:9)ですから、私たちもこの戦いに向かう備えをして行く
のです。もう訓練を受けている時ではありません。私たちは訓練を卒業して、これからは社会人
として歩み出す時期に来ています。信仰においては、もう成熟した大人です。ですから、絶対主の
御心の中に歩み出そうではありませんか。
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