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 2015年4月5日    



患難時代で殉教することの幸い



黙示録14:14~20


(起) 「患難時代で殉教することの幸い」について学んでいきたいと思います。

(承) さて、今日お読みした箇所は、黙示録の中で、唯一携挙について書かれている場所です。

私たちは今まで、「ここでクリスチャンは携挙されるのだ」と思っていましたが、実はそうでは

ないということが今回分りました。では、携挙はどこで起こるのかというと、黙示録19章14節

の後です。なぜなら、携挙について書かれてある14章14節の前に、13節では、「今から後、

主にあって死ぬ者は幸いである。」と書いてあります。これが、もし、14節で携挙が起こると

するならば、「今から後、主にあって生きている者は幸いです。」と、書かれてあるはずです。

なぜなら、携挙というのは、その時生きているクリスチャンが、天に引き上げられるからです。

とすると、むしろ「今から後、
死ぬ者は災いです。」となるはずです。確かに、14~16節

には、携挙について書いてありますが、これは、「これからこういうことが起こります」という

宣言であって、このことが実際に起こるのは、福音書や手紙に書かれている内容と照らし合わせる

と、19章14節と15節の間としか考えられません。そうなると、携挙される人というのは、

この患難時代にあって、最後の最後まで獣の刻印を押さずに信仰を全うし、しかも7つの鉢の災い

が書かれてある16章の天変地異も越えて行った人ということになります。もし、クリスチャンが

この携挙に預かるとなるならば、少なくとも獣の苦しみにあうのは当然のことであり、さらにその

後で、激しい第二の天変地異も通って行かなければならないのです。とすると、ずっとこの地上で

生き残って、最後の最後に携挙されることが、必ずしも幸いであるとは言い切れません。

(転) では、私たちにとって一番の幸いは何でしょうか。それは、獣の前に出され、そこで殉教

することです。
この獣の前に出て、「主は私の救い主です。だから、絶対に刻印は押しません」と

堂々と言えば、その瞬間に命を取られるでしょう。そして、「獣とその像とその印に打ち勝った、


勝利を得る者
(2章26節)」即ち、「聖徒の忍耐ここにあり」という御言葉の通りに、この

黙示録に書かれた幸いに預かる者となります。ですから、その後にやってくる天変地異による

苦しみを受けて携挙されるよりは、よっぽど幸いだと思います。なぜなら、イエス様のために、

この命を差し出して死ねるからです。
しかも、この患難時代を通って殉教していく者には、第一の

復活と、聖なる都が約束されているのです。
こんなにすごいことを予め教えられ、イエス様の証し

のために、この命を使い尽くせるなら、どうせ死ぬ体を持つ者として、幸いな命の使い方です。

また、この自覚を持って、備えていける私たちは本当に幸いです。
ところが、クリスチャンは艱難

時代の前に空中携挙があって、天に引き上げられると考えているノー天気な人もいます。
主の再臨

は、福音書や、書簡や、黙示録を見ると、全て
「荒らす憎むべき者」が出現してから、主の再臨が

ある
と明確に記されています。それなのに、多くのクリスチャンが、艱難時代の前に引き上げら

れると思わされていることは、その背後にいる汚れた霊の騙しとしか考えられません。絶対主は

私たちに、聖なる都へ入る者となるようにと、イエス様に巻物を与えて、この黙示録を読む者

として下さいました。だからこそ、患難時代に入る前に、黙示録をここまで明確に解き明かして

下さり、私たちがどういう心構えを持って生きていくべきかを教えて下さったのです。もし、この

事が分らないまま患難時代に突入してしまったら、私たちは必ず自分の命を守る方向に向かって

いきます。「苦しみにあわないように生きていくことが幸いだ」と思うからです。そして、その後

に激しい後悔があるのです。
もし、艱難時代の前に携挙されるならば、目を覚ましていなくても、

自動的に天に行くことになります。
そんな都合のいい話は、福音書に書かれていません。しかし、

ここまで明確にされた以上、私たちはもう自分自身のちっぽけな命を守り、命乞いする必要はあり

ません。私たちは、絶対主の栄光を表すために、この命を使ってもらえるのです。ただ病気や、

老衰で死んで行くわけではありません。
先程も申し上げたように、獣の前に信仰の証しを残し、

死ねるなら、最高の命の使い方です。
こんな、取り柄もない私たちでも、そのように使っていた

だけるなら、私たちがこの地上で生かされて来た価値があります。この事が分ったら、私たちは

「主よ。もう私の心は定まりました。イエス様の後を、どこまでもついて行きます。よろしく

お願いします」と、へりくだりの心を持って、これからの生涯を、主に明け渡そうではありません

か。


(結) 最後に、22章を見ると、「その者の行いにしたがって各々に報いよう。」とあります。

この「行い」とは何でしょうか。それは、どこまでもイエス様に従っていく心です。イエス様は

絶対主に従われ、あの十字架を負って下さいました。ならば、私たちも患難を負っていくのは当然

のことでしょう。そして、その者の報いとして、御国に入れて下さるだけでなく、「聖なる都」で

絶対主の御側近くで住むことが赦されたなら、どんなに幸いでしょうか。その栄光の中で、絶対主

とイエス様と共に、永遠に生きていくことになるのです。どうか、この永遠の幸いの中へ入れら

れる「勝利を得る者」となりましょう。そして、これからやってくる患難に向かって、強く

雄々しく従って行く者とされましょう。

 


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