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 2015年3月29日    



絶対主からの使命



黙示録14:1~5


(起)「私たちが絶対主から与えられている使命」と、「その使命を果たしていくために必要な

こと」
について、学んでいきたいと思います。

(承) さて、この黙示録は、クリスチャンが信仰の歩みをして行く上で、大切な指示を与えて

くれています。すなわち、黙示録は、それを読む者にとって幸いを与える書ですから、私たちに

とっては非常に身近な書物であり、今日、14章からお読みした所には、私たちの希望について

書いてあります。3節~4節を見て行きますと、「彼ら」と出てきますが、この「彼ら」とは、

実は私たちのことです。今までは、これを十四万四千人の人たちのことだと思って読んできましたが、

そうではありません。この「彼ら」というのは、「天で新しい歌を歌っている人たち」のことです

から、彼らは十四万四千人の人たちのことではなく、私たちクリスチャンのことについて語られて

いるのです。その証拠として、「彼らは、
絶対主と小羊とにささげられる初穂として、イエスに

よって人間の中から贖われた者」とあります。
「初穂」という言葉が出てきますが、以前、絶対主は

私たちに、「素のままで戦い、
わたしの初穂となってもらえませんか?」と言われたことがあり

ます。この初穂とは、アダムとエバのことではありません。アダムとエバは被造物の初穂として

創られましたが、悪魔にやられて堕落してしまいました。ですから、絶対主は、アダムとエバを

被造物の初穂として刈り取ることが出来なくなりました。そこで、絶対主は「アダムとエバと同じ

ような素の人間が、悪魔に立ち向かってその誘惑に勝利した者たちを、初穂として刈り取りたい」と、

お考えになられたのです。それは、勝ち誇っている悪魔に対して、「素のままでも、お前に勝利する

者がいる。」ということを突きつけ、「アダムとエバの子孫でも、悪魔に勝つ者がいることを証し

したい」と願われたのです。そこで、主は、「あなた方にとって酷で辛いことですが、素のままで

戦い、私の初穂になって下さい。」と言われたのです。私たちには、この使命が与えられ、被造物の

勝利者として、素の状態のままで悪魔に立ち向かい、勝利するということによって、「絶対主と小羊

とにささげられる初穂」になるのです。


(転) では、罪を犯したアダムの子孫である私たちが、悪魔に勝利するとは、どうしたらいいので

しょうか?それは、罪人としての人間が、自分の罪の責任を潔く負って行くことです。何故なら、

アダムとエバは、罪を犯した後、その罪の責任をエバと蛇の所為にして、他人事にしました。

ですから、彼らは未だに悪魔にやられたままで、罪の支配の中に置かれたままになっています。

そのため、そのアダムの子孫達も、同じように自分の罪の責任を負おうとせず、他人になすりつけ

自分が罪人であることを認めようとしていないのです。そこで私たちはアダムの子孫として、

100%の罪人であることを潔く認め、罪の責任は自分たちにあることを知ってその責任を負うこと

により、「もう二度と悪魔の罠にはまることはしない」という意識に立つことです。人の罪そのもの

に対する贖いは、小羊なるイエス様がして下さいました。ですから、今度は、私たちが自分の罪に

対する責任を他人の所為にせず、自分の事として、せめて世を去るまで罪の苦しみは自分が負って

行くのが当然だと自覚することです。
この罪の責任は自分にあると自覚するなら、悪魔は罪を

自覚する者に、同じ形で誘惑することは出来なくなります。
また勝ち誇ることも出来ません。

これが、悪魔に対する勝利です。しかし、私たちは、今ようやく「自分が100%罪人だ」という

ことが分かり、「その罪の責めを受けていくのは当然だ」ということを、自覚し始めました。

しかし、それが分っただけではいけません。
私たちは罪から救われた者だとしても、罪の責任は

自分にあるのですから、実際の自分の罪、過ちに対して逃げるのではなく、「罪の恥を受け、罪の

苦しみを受けて行くのは当然です」と受けて行くべきです。
本来、自分のやったことについては

責任を負わなければならないのです。
多くの人は、「自分が犯した罪によって受ける心の痛みや、

後悔から解放されたい。赦してもらいたい。罪の責めを感じなくなるようになりたい」と願い、

「それが救いだ」と思っていますが、大間違いです。
逆に、その心こそが悪魔にやられ続けている

心であり、私たちの一番悪い部分なのです。もし、罪の責任を負うことから逃げるならば、私たち

はずっと悪魔の支配の中に置かれることになります。そして、その悪魔の支配の中でいつも脅え、

心はますます閉じていき、絶対主に心を向けることが出来なくなってしまうのです。ですから、

これからは実際に責任を取っていく姿勢をもち、そこで具体的にその生き方を始め、悪魔との縁を

切らなければなりません。
絶対主は、こんな私たちを選び、「お前たちを悪魔と戦わせ、患難時代の

中で証しをさせる」と、計画しておられたようです。異邦人の私たちですから、「そこまでの働きの

中に自分たちが組み込まれていた」とは考えてもいませんでした。しかし、絶対主の手の中では、

初めから決まっていたことだったようです。そうであるなら、素直にその使命に立って行こうでは

ありませんか。それを、突然降って湧いた話のように考えるのではなく、「自分たちは、この使命に

立つ者として選ばれたのだ」という自覚を持って、残りの生涯を生きて行くべきです。


(結) 終わりの時代に生きている私たちは、最後に、獣の前に出されます。「聖徒の忍耐ここに

あり」とありますから、その獣に対して、「この命を主を信じる証の為に捧げるのは当然です。」と

殉教していくなら、それが罪人の責任を取ったことの証しとなるでしょう。「私はイエス様によって

救われました。ですから、最後にこの身を主に使って頂くのです。」と、悪魔に突きつけ証しを

立てるのです。それが私たちの初穂としての使命です。この一時の苦しみは、永遠の幸いを味わう

苦しみです。ですから、その使命を果たしていくために、罪人として責任を負っていく自覚が必要

です。今、その心を艱難時代で証ししていくために、この地上でその心を確立して行く必要があり

ます。そのために、この地にいる今、一つでも二つでも罪の責任を取っていく証しを実践して

行こうではありませんか。そして、
悪魔に対して「勝利する者」が、聖なる都の中に

入れられる者である
ことを証しして行こうではありませんか。
 


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