黙示録14:1~5
(起)「私たちが絶対主から与えられている使命」と、「その使命を果たしていくために必要な
こと」について、学んでいきたいと思います。
(承) さて、この黙示録は、クリスチャンが信仰の歩みをして行く上で、大切な指示を与えて
くれています。すなわち、黙示録は、それを読む者にとって幸いを与える書ですから、私たちに
とっては非常に身近な書物であり、今日、14章からお読みした所には、私たちの希望について
書いてあります。3節~4節を見て行きますと、「彼ら」と出てきますが、この「彼ら」とは、
実は私たちのことです。今までは、これを十四万四千人の人たちのことだと思って読んできましたが、
そうではありません。この「彼ら」というのは、「天で新しい歌を歌っている人たち」のことです
から、彼らは十四万四千人の人たちのことではなく、私たちクリスチャンのことについて語られて
いるのです。その証拠として、「彼らは、絶対主と小羊とにささげられる初穂として、イエスに
よって人間の中から贖われた者」とあります。「初穂」という言葉が出てきますが、以前、絶対主は
私たちに、「素のままで戦い、『わたしの初穂』となってもらえませんか?」と言われたことがあり
ます。この初穂とは、アダムとエバのことではありません。アダムとエバは被造物の初穂として
創られましたが、悪魔にやられて堕落してしまいました。ですから、絶対主は、アダムとエバを
被造物の初穂として刈り取ることが出来なくなりました。そこで、絶対主は「アダムとエバと同じ
ような素の人間が、悪魔に立ち向かってその誘惑に勝利した者たちを、初穂として刈り取りたい」と、
お考えになられたのです。それは、勝ち誇っている悪魔に対して、「素のままでも、お前に勝利する
者がいる。」ということを突きつけ、「アダムとエバの子孫でも、悪魔に勝つ者がいることを証し
したい」と願われたのです。そこで、主は、「あなた方にとって酷で辛いことですが、素のままで
戦い、私の初穂になって下さい。」と言われたのです。私たちには、この使命が与えられ、被造物の
勝利者として、素の状態のままで悪魔に立ち向かい、勝利するということによって、「絶対主と小羊
とにささげられる初穂」になるのです。
(転) では、罪を犯したアダムの子孫である私たちが、悪魔に勝利するとは、どうしたらいいので
しょうか?それは、罪人としての人間が、自分の罪の責任を潔く負って行くことです。何故なら、
アダムとエバは、罪を犯した後、その罪の責任をエバと蛇の所為にして、他人事にしました。
ですから、彼らは未だに悪魔にやられたままで、罪の支配の中に置かれたままになっています。
そのため、そのアダムの子孫達も、同じように自分の罪の責任を負おうとせず、他人になすりつけ
自分が罪人であることを認めようとしていないのです。そこで私たちはアダムの子孫として、
100%の罪人であることを潔く認め、罪の責任は自分たちにあることを知ってその責任を負うこと
により、「もう二度と悪魔の罠にはまることはしない」という意識に立つことです。人の罪そのもの
に対する贖いは、小羊なるイエス様がして下さいました。ですから、今度は、私たちが自分の罪に
対する責任を他人の所為にせず、自分の事として、せめて世を去るまで罪の苦しみは自分が負って
行くのが当然だと自覚することです。この罪の責任は自分にあると自覚するなら、悪魔は罪を
自覚する者に、同じ形で誘惑することは出来なくなります。また勝ち誇ることも出来ません。
これが、悪魔に対する勝利です。しかし、私たちは、今ようやく「自分が100%罪人だ」という
ことが分かり、「その罪の責めを受けていくのは当然だ」ということを、自覚し始めました。
しかし、それが分っただけではいけません。私たちは罪から救われた者だとしても、罪の責任は
自分にあるのですから、実際の自分の罪、過ちに対して逃げるのではなく、「罪の恥を受け、罪の
苦しみを受けて行くのは当然です」と受けて行くべきです。本来、自分のやったことについては
責任を負わなければならないのです。多くの人は、「自分が犯した罪によって受ける心の痛みや、
後悔から解放されたい。赦してもらいたい。罪の責めを感じなくなるようになりたい」と願い、
「それが救いだ」と思っていますが、大間違いです。逆に、その心こそが悪魔にやられ続けている
心であり、私たちの一番悪い部分なのです。もし、罪の責任を負うことから逃げるならば、私たち
はずっと悪魔の支配の中に置かれることになります。そして、その悪魔の支配の中でいつも脅え、
心はますます閉じていき、絶対主に心を向けることが出来なくなってしまうのです。ですから、
これからは実際に責任を取っていく姿勢をもち、そこで具体的にその生き方を始め、悪魔との縁を
切らなければなりません。絶対主は、こんな私たちを選び、「お前たちを悪魔と戦わせ、患難時代の
中で証しをさせる」と、計画しておられたようです。異邦人の私たちですから、「そこまでの働きの
中に自分たちが組み込まれていた」とは考えてもいませんでした。しかし、絶対主の手の中では、
初めから決まっていたことだったようです。そうであるなら、素直にその使命に立って行こうでは
ありませんか。それを、突然降って湧いた話のように考えるのではなく、「自分たちは、この使命に
立つ者として選ばれたのだ」という自覚を持って、残りの生涯を生きて行くべきです。
(結) 終わりの時代に生きている私たちは、最後に、獣の前に出されます。「聖徒の忍耐ここに
あり」とありますから、その獣に対して、「この命を主を信じる証の為に捧げるのは当然です。」と
殉教していくなら、それが罪人の責任を取ったことの証しとなるでしょう。「私はイエス様によって
救われました。ですから、最後にこの身を主に使って頂くのです。」と、悪魔に突きつけ証しを
立てるのです。それが私たちの初穂としての使命です。この一時の苦しみは、永遠の幸いを味わう
苦しみです。ですから、その使命を果たしていくために、罪人として責任を負っていく自覚が必要
です。今、その心を艱難時代で証ししていくために、この地上でその心を確立して行く必要があり
ます。そのために、この地にいる今、一つでも二つでも罪の責任を取っていく証しを実践して
行こうではありませんか。そして、悪魔に対して「勝利する者」が、聖なる都の中に
入れられる者であることを証しして行こうではありませんか。
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