ルカの福音書21:5~28
(起)患難時代を通って行くクリスチャンの心について、学んで行きたいと思います。
(承) さて、患難時代は、私たちが生きているうちに始まると考えていくべきでしょう。
聖書では、主の再臨が「荒らす憎むべき者」が出現した後にあると明確に記されています。
ですから、皆さんは、「この世の終わりの中で起こる出来事の真っ直中を、通って行くのだ」という
ことを自覚して、聖書を読んで行っていただきたいと思います。
さて、患難時代というのは、前半の時代と後半の時代に分かれています。そして、その両方合わ
せると7年間になります。今、お読みしたルカの福音書21章で言うと、10~19節が前半、
20~28節が後半です。そんな中で、今日皆さんにぜひ知っていただきたいことは、患難時代では、
天変地異が2回あるということです。1回目の天変地異については11節に、2回目については
25~26節にあります。そのことが更に具体的に記されているのが、黙示録です。
黙示録の8章7節から見ていきましょう。第一のラッパが吹き鳴らされると、血の混じった雹と火
とが地上に降って来ます。そして、地上の木の三分の一が焼け、すべての青草もひからびてしまい
ます。第二のラッパが吹き鳴らされると、火の燃えさかっている巨大な山のようなものが海に投げ
込まれ、海の三分の一が血となり、海の生き物の三分の一が死に、船も壊されてしまいます。
第三のラッパが吹き鳴らされると、燃える巨大な星が天から落ちて来ます。それは川の三分の一と、
その水源との上に落ち、川の水の三分の一がダメになってしまいます。第四のラッパが吹き鳴ら
されると、太陽と月と星の三分の一が暗くなってしまいます。これが患難時代の前半に起こってくる
一回目の天変地異です。私たちは、この苦難の中を通って行かなければなりません。
では、患難時代の後半に起こってくる、二回目の天変地異については、どこに書いてあるの
でしょうか。それは、黙示録の16章です。ここでは、絶対主の激しい怒りの七つの鉢が地にぶち
まけられます。先程は、三分の一でしたが、今度は全部滅ぼされます。そして、最後の鉢がぶちま
けられると、巨大な地震が起こり、事は成就するのです。この後半の天変地異の時は、クリスチャン
は14章で携挙されていますので、この災いに会うことはありません。しかし、前半の天変地異
には遭遇します。ですから、こうして今、私たちの目の前には、これだけリアルで明確な患難時代
についての解き明かしがあるのですから、私たちは、この時代を実際に通って行く、信仰の心構え
が必要です。
(転)では、この患難時代を通って行く中で、私たちの信仰はどうあるべきでしょうか。
第一テモテ1章19節を見ると、「ある人々は、正しい良心と、主を信じる心を捨てたため、
大損害を受けました。」とあります。これはいつ起こるかというと、患難時代です。主を信じる心
を捨てた者たちは、患難時代に入ってどういう気持ちになるのでしょうか。多くの人は、「自分は
ここまで信じて来たのに。教会に行っていたのに。聖書を読んでいたのに。ずっと献金もして
いたのに」と言うでしょう。しかし、絶対主は何を見られるのかといいますと、「悔いし砕かれた
心」を持っているかどうかです。悔いし砕かれた心とは何でしょうか。
それは、「自分は罪人で、主の贖いだけが救いです。」と心得ている人のことです。「罪人で
あっても、努力して頑張れば何とかなる」という世界ではありません。「罪人=ゼロ」ですから、
罪人は裁きを受ける者です。私たちの行いとか努力によって、受け入れてもらえるような要素は
一つもありません。私たちが、何故ここまで、「悔いし砕かれた心を学ぶように」と言われてきた
のかというと、私たちがこの患難時代を通って行かなければならないからです。私たちは、
「ゼロだから、100%助けてもらわなければならない。」そのことを本当に理解していなければ、
患難時代に入った時、どうなるでしょうか? 「自分の中の何%かの踏ん張りで、患難時代を乗り
越えて行かなくてはいけない」と思ってしまい、絶対に潰れます。しかし、「自分の力では何も
できないのだ」と認めていれば、「できないのだから、患難時代で殺されたって当然だ」と信じる
心だけは死守するでしょう。「そこを通らなければいけない」とか「なんとか耐えて、頑張らな
ければいけない」とか、そういうことではありません。私たちは、ゼロですから。ただ、私たちが
そこを通るとしたら、それは、「こんな中でも、信じる心を持っている者たちがいるぞ」ということ
を悪魔に突きつけるのが、イエス様の心です。また、それを666に突きつけるために、残されて
いるのです。何か成果を出すために残されているわけではありません。自分の中で、「何か成果を
出さなくてはいけない」とか「耐えなければいけない」という気持ちを持っていたら、患難時代を
通ることはできないのです。だから、私たちは「罪人ですから、ゼロだ」ということを本当に
認めていなければ成りません。ゼロだから、本当に罪人だから、どこまでも主に頼ってやっていく
のです。これが私たちの生き方です。そして、「それを通してほしい」というのが、絶対主と
イエス様の心なのです。
(結) 私たちは、このことを本当に知っていなければ、患難時代を通ることはできません。
「私はこれだけのことをやってきました」という思いが、主への証しだと思って来た人は、
「艱難時代を通る」ということを聞いたら、必ずビビって、「自分はやっていけるかな?」と
恐れるでしょう。何故そう思うのでしょうか。
それは、自分の能力を見ているからです。できるかできないか、自分自身に根拠を置いている
からです。ところが、「罪人には何もないのだ」と、本当に分かった人は、主だけに心を向けて行き
ます。これは、単なる頭だけで通って行ける世界ではありません。本気の信仰が必要です。
本気の信仰とは、「自分には何もない。イエス様だけです」という気持ちに心が変えられること
です。悔いし砕かれた心こそ、主の前に持つべき正しい信仰の心であり、主を信じ仰ぐ心を、
最後まで持って行く事が、「勝利を得る者」となります。私たちは罪人ですから、自分には何も
ありません。最後に残るものは、「主を信じ仰ぐ心」だけです。それを表していけば良いのです。
この真理に立っていきましょう。 |
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