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2015年2月8日    



患難時代を通って行く心



 

ルカの福音書21:5~28


(起)患難時代を通って行くクリスチャンの心について、学んで行きたいと思います。

(承) さて、患難時代は、私たちが生きているうちに始まると考えていくべきでしょう。

聖書では、主の再臨が「荒らす憎むべき者」が出現した後にあると明確に記されています。

ですから、皆さんは、「この世の終わりの中で起こる出来事の真っ直中を、通って行くのだ」という

ことを自覚して、聖書を読んで行っていただきたいと思います。

 さて、患難時代というのは、前半の時代と後半の時代に分かれています。そして、その両方合わ

せると7年間になります。今、お読みしたルカの福音書21章で言うと、10~19節が前半、

20~28節が後半です。そんな中で、今日皆さんにぜひ知っていただきたいことは、患難時代では、

天変地異が2回あるということです。1回目の天変地異については11節に、2回目については

25~26節にあります。そのことが更に具体的に記されているのが、黙示録です。

黙示録の8章7節から見ていきましょう。第一のラッパが吹き鳴らされると、血の混じった雹と火

とが地上に降って来ます。そして、地上の木の三分の一が焼け、すべての青草もひからびてしまい

ます。第二のラッパが吹き鳴らされると、火の燃えさかっている巨大な山のようなものが海に投げ

込まれ、海の三分の一が血となり、海の生き物の三分の一が死に、船も壊されてしまいます。

第三のラッパが吹き鳴らされると、燃える巨大な星が天から落ちて来ます。それは川の三分の一と、

その水源との上に落ち、川の水の三分の一がダメになってしまいます。第四のラッパが吹き鳴ら

されると、太陽と月と星の三分の一が暗くなってしまいます。これが患難時代の前半に起こってくる

一回目の天変地異です。私たちは、この苦難の中を通って行かなければなりません。

では、患難時代の後半に起こってくる、二回目の天変地異については、どこに書いてあるの

でしょうか。それは、黙示録の16章です。ここでは、絶対主の激しい怒りの七つの鉢が地にぶち

まけられます。先程は、三分の一でしたが、今度は全部滅ぼされます。そして、最後の鉢がぶちま

けられると、巨大な地震が起こり、事は成就するのです。この後半の天変地異の時は、
クリスチャン

は14章で携挙されています
ので、この災いに会うことはありません。しかし、前半の天変地異

には遭遇します。ですから、こうして今、私たちの目の前には、これだけリアルで明確な患難時代

についての解き明かしがあるのですから、
私たちは、この時代を実際に通って行く、信仰の心構え

が必要です。


(転)では、この患難時代を通って行く中で、私たちの信仰はどうあるべきでしょうか。

第一テモテ1章19節を見ると、「ある人々は、正しい良心と、主を信じる心を捨てたため、

大損害を受けました。」とあります。これはいつ起こるかというと、患難時代です。主を信じる心

を捨てた者たちは、患難時代に入ってどういう気持ちになるのでしょうか。多くの人は、「自分は

ここまで信じて来たのに。教会に行っていたのに。聖書を読んでいたのに。ずっと献金もして

いたのに」と言うでしょう。しかし、
絶対主は何を見られるのかといいますと、「悔いし砕かれた

心」を持っているかどうかです。
悔いし砕かれた心とは何でしょうか。

 それは、
「自分は罪人で、主の贖いだけが救いです。」と心得ている人のことです。「罪人で

あっても、努力して頑張れば何とかなる」という世界ではありません。
「罪人=ゼロ」ですから、

罪人は裁きを受ける者です。私たちの行いとか努力によって、受け入れてもらえるような要素は

一つもありません。
私たちが、何故ここまで、「悔いし砕かれた心を学ぶように」と言われてきた

のかというと、私たちがこの患難時代を通って行かなければならないからです。私たちは、

「ゼロだから、100%助けてもらわなければならない。」そのことを本当に理解していなければ、

患難時代に入った時、どうなるでしょうか? 「自分の中の何%かの踏ん張りで、患難時代を乗り

越えて行かなくてはいけない」と思ってしまい、絶対に潰れます。しかし、「自分の力では何も

できないのだ」と認めていれば、「できないのだから、患難時代で殺されたって当然だ」と信じる

心だけは死守するでしょう。「そこを通らなければいけない」とか「なんとか耐えて、頑張らな

ければいけない」とか、そういうことではありません。私たちは、ゼロですから。ただ、私たちが

そこを通るとしたら、それは、
「こんな中でも、信じる心を持っている者たちがいるぞ」ということ

を悪魔に突きつけるのが、イエス様の心です。
また、それを666に突きつけるために、残されて

いるのです。何か成果を出すために残されているわけではありません。自分の中で、「何か成果を

出さなくてはいけない」とか「耐えなければいけない」という気持ちを持っていたら、患難時代を

通ることはできないのです。だから、私たちは「罪人ですから、ゼロだ」ということを本当に

認めていなければ成りません。ゼロだから、本当に罪人だから、どこまでも主に頼ってやっていく

のです。これが私たちの生き方です。そして、「それを通してほしい」というのが、絶対主と

イエス様の心なのです。


(結) 私たちは、このことを本当に知っていなければ、患難時代を通ることはできません。

「私はこれだけのことをやってきました」という思いが、主への証しだと思って来た人は、

「艱難時代を通る」ということを聞いたら、必ずビビって、「自分はやっていけるかな?」と

恐れるでしょう。
何故そう思うのでしょうか。

 それは、自分の能力を見ているからです。できるかできないか、自分自身に根拠を置いている

からです。ところが、
「罪人には何もないのだ」と、本当に分かった人は、主だけに心を向けて行き

ます。
これは、単なる頭だけで通って行ける世界ではありません。本気の信仰が必要です。

本気の信仰とは、「自分には何もない。イエス様だけです」という気持ちに心が変えられること

です。
悔いし砕かれた心こそ、主の前に持つべき正しい信仰の心であり、主を信じ仰ぐ心を、

最後まで持って行く事が、「勝利を得る者」となります。私たちは罪人ですから、自分には何も

ありません。最後に残るものは、「主を信じ仰ぐ心」だけです。それを表していけば良いのです。

この真理に立っていきましょう。
 


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