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2015年2月1日    



主に信頼して歩む



 

ルカの福音書19:28~40


(起)「自分から離れ、主に信頼して歩む」ということについて学んでいきたいと思います。

(承) さて、イエス様は「向こうの村へ行って、ロバの子が繋いであるから、それを解いて

引いて来なさい」と、弟子たちに言われました。そして、「何故解くのですかと言われたら、

『主がお入り用です』と言いなさい。」と言われました。「ただこれだけの理由で、引いて来れる

のだろうか?」と皆さんは思われませんか?今日なら、「向こうの町に行って駐車場から、他人の

車を取ってきなさい。」と言われているのと同じです。それは泥棒です。この話を皆さんは、当事者

としてどのように受け止めることが出来るでしょうか? 

「できれば他の人にやってもらいたいな。人のものを勝手に持って来たら泥棒になってしまう。

いくらイエス様から託されたことでも、そんなことしていいのかな」という思いが出て来ませんか?

しかし、それは自分の側から見た見方にすぎません。もし、
これを絶対主の側から見たなら、

「この世では非常識な事柄でも、イエス様がそのように宣言されたら、その通りになるんだ」と受け

止めることができる筈です。
「すると、これから、自分たちもこういう経験ができるのだ。」と

喜べるのではないでしょうか?私たちは、常に自分の側からではなく、絶対主の側から考え、受け

止めて行くべきです。その様にして行くなら、「自分にそれができるとか、できないとか。」

あるいは、「今この地上でそれが起こるとか、起こらないとか。」そのような人間的な考えや疑問

を挟む必要はありません。その疑問は砕いて行くべきです。人間の側からの見方は、この地上の

狭い世界の中での判断にすぎません。ところが、絶対主は全知の中での判断をされるお方であり、

全能の力を持っておられるお方ですから、この御言葉は正しいのです。ですから、聖書に書いて

あることを、私たちが勝手に否定してはいけません。聖書の中には、自分たちに理解できないような

こともあるかもしれません。しかし、絶対主の言葉として聖書に書いてある以上、それは正しいの

です。私たちの心の中には、いつも自分の側から物を見るのが当たり前になっています。

しかし、クリスチャンには、「自分の物の見方と、絶対主の側からの物の見方」の二つを持って

います。そして、この二つの正反対の思いが心に浮んできます。しかし、自分自身の考えを入れて、

絶対主を否定するような方向に向けてはなりません。私たちは、自分の考えを砕き、「自分の思い

よりも、聖書に書いてある考えが正しい」という所に立つべきです。この判断が、クリスチャンの

生き方です。この考えに、確信をもって向かって行くべきです。


(転) では、この考えを私たちクリスチャンの生活に当てはめて考えていきたいと思います。

先程もお話ししたように、私たちには、二つの思いがあります。一つは、「ただ主の考えに従う

べきだ」という思いと、もう一つは、「主に従っていくためには、人に受け入れられ、認められる

ことをやっていかなければならない」という思いです。なぜそう思うのでしょうか。それは、学校

でそのように習ってきたからです。先生に認められるためには、先生の言うことをちゃんと聞いて、

それを実行していかなければなりません。それをしていくことによって信頼され、受け入れられて

行きます。それが今の世の中です。ところが、絶対主の前では違います。私たちの教会では、

「まず、砕かれた悔いし心を持ちなさい」と教えられています。それは言い換えると、
「自分には

何もないということを知りなさい」
ということです。「人間の能力は一つも通用しない。罪人だから

ゼロだということです。」それが、本当に心の中で分からなければなりません。それが、絶対主の

前で生きる第一歩の心だからです。ところが、ある程度、学校で成果を出してきた人は、今までの

やり方からなかなか抜け出すことができず、過去において、「一生懸命努力して成果を出して行く

ことが正しい、そこに成果が出ようが、出まいが、その生き方が正しい。」と思い込まされて

います。だから、クリスチャンになったら、尚更、そうしていくべきだと思うのが、主の前に

正しい考えだと思い、拍車がかかります。それが、人にも主にも受け入れられる大切な心だから、

努力して頑張って成果を出していこう」という気持ちになるのです。逆に、「自分は何をやっても

ダメだった」という人もいますが、そういう人であっても、その人なりに「自分が主に受け入れ

られるためには、一生懸命頑張って、成果を出さなきゃ」という気持ちが強くあるので、結局は

どちらも同じです。ところが、「頑張って認められたい」という気持ちを持つこと自体、絶対主の

前に間違っています。絶対主が言いたいことは、
「人間は何も出来ない罪人だから、わが子を送った

のです。もし、人に正しく生きていく力があるなら、律法だけで良かったのです」
と。「だから、

人が努力して頑張っても、それは一つも通用しないということを知りなさい。
努力して、どれだけ

の成果を出して来たんですか?だから、『自分は何もやってこなかったのと同じでしょ』という

事実を認めなさい」ということです。「努力して受け入れられるやり方が通用しない」と分かれば、

残るものは、「ただ主に頼って、付いて行くだけです。」という気持ちだけです。ならば、

「こんなダメな者ですが、私は主に従って行きますので、どうかお助け下さい」という、思いだけ

ではないでしょうか。これが、マグダラのマリヤさんの心であり、「ただ為すべき事をしたに過ぎま

せん。」と言ったしもべの心です。 すると、ルカ18:27にあるように、「人には出来ないこと

が、絶対主にはできるのです」と言われた絶対主が、「従っていきたい」と願う私たちの心を全う

させて下さるのです。私たちは、ここに心を向けて行けば良いのです。


(結) ですから大切なことは、
最後までこの絶対主に頼っていく自由意志を表すかどうかです。

しかし、「自分は何もできませんから何もせず、ただ絶対主にお願いします」ではいけません。

私たちは、絶対主に認められる行いが、自分の力では出来る訳ではありませんが、自分の心だけは

自分のものですから、「
常に頼って、言われたことは遣って行きます」という砕かれた心は、

現わしていかなければ成りません
。この決断は、自分の意志で続けて行くものです。ですから、

どんな困難があっても、自分にはできないことが分っていても、罪人の頼るところは主ですから、

たとえ、すぐ答えがなくとも私たちは踏ん張っていくのです。これが、主に信頼していく道であり、

主に用いられて行く道です。今までの考え方から離れ、この道を歩み初めましょう。
 


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