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2015年2月15日    



生ける絶対主に100%望みを置く



 

第Ⅰテモテ4:1~16


(起)「100%罪人の人間が、良きことを行う能力はゼロである」ことを悟り、「生ける絶対主

に100%望みを置く」ことについて、学んでいきたいと思います。


(承) さて、まずロマ書3:12では、「善を行う者はいない。一人もいない。」とあるように、

人は100%罪人です。ですから、100%の罪人が、たとえ良き事を行っても、絶対主に受け

入れられる行いとはなりません。ですから第Ⅰテモテ4:1節を見ると、「後の時代になると、

ある人々は、惑わす霊と悪霊の教えとに気を取られて、主を信じる心から離れ去るでしょう。」と

あるように、終りの時代に入っていくと、100%の罪人は背信を行う時代になっていきます。

それは、惑わしの霊が働く時代になるからです。そこで、私たちが気をつけなければならないことは、

この惑わしの霊を見極めることです。目に見えることなら、それが本物かどうか、自分の目で実際

に見れば確認することができますが、霊の世界はそういうわけにはいきません。霊の世界は目に

見えませんから、それが事実だと証明する時、裏付けが必要になってきます。その裏付けが、

いわゆる「しるし」です。しかし、
この印が、絶対主からのものか、悪霊からのものかを見極め

なければ成りません。
これからは、今まで私たちが考えていた常識的な物の論理を越えた不思議な

しるしによって目が曇らされていく時代になっていきます。すると、人間の頭では判断できなく

なり、「無秩序な霊の世界」の中に惑わされて行くのです。これが、悪霊がやろうとしている

ことです。
悪魔のしるしが行われると、すべて正しいと思わされる世界になって行くのです。

ですから、惑わされやすく怖い世界になって行きます。


(転) では、そういう中で、私たちはどこに信頼を置き、どのように真理を見極めていけば

いいのでしょうか。その大事な点は、まず絶対主の前に、「自分は100%罪人である」という

ことを自覚しておくべきです。私たち人間は皆、「自分は正しいのだ。自分は出来るのだ」という

考えを、大なり小なり持っています。そして、大げさですが、最終的には、「自分は神だ」と思う

心さえ出てきます。もし、その傲慢な思いにブレーキがかからなければ、収拾がつかなくなり、

絶対主は、何もかも全部滅ぼさなければならなくなります。ですから、人間がそういう方向に

向かう危険性があったが故に、絶対主は人間を罪の中に閉じ込められ、人は罪の中に生れるよう

にされたのです。人間が罪人になったということは、不完全になったということです。

そのことを思い知らせることが、アダムの堕落でした。ですから、私たちはまず、「人間は、

絶対主と対等ではない」ということを知るべきです。そして、「自分の持っている能力は、絶対主

には通用しない」ということ、また、「自分の持っている知識はほんの一部であって、絶対主と

比べたら雲泥の差がある」ということを、理解することです。

今日お読みした4:8を見ると、「主を敬う心は、今の命と後の命が約束されているので、万事が

益になります。」とありますが、「主を敬う心」というと、行いの方向に心が向きがちですが、

この主を敬う心は、自分の中に傲慢な思いがあったら出て来ません。むしろ、「自分たちは罪人で、

ゼロなのだ」と悟ることによって、主を敬う心は出てきます。私たちは、この心に焦点を合わせて

いくべきです。これからの時代は、いろいろな霊的なことが起こり、惑わす霊の働きが起こって

きます。その中で、悪霊の働きをしっかりと見極め、真実な主の御霊に留まり、信仰の心を維持

していくことが大事です。そのためには、先程申しました、「主を敬う心」をちゃんと持っている

ことです。
例えば、もし心の中に、「70%は自分の努力でやってきた」という思いがあれば、

「主を敬う心は、残りの30%しかありません。」そうではなく、100%主を敬う心をもって、

100%主に頼っていく心でなければ成りません。なぜなら、100%罪人だからです。
だから、

私たちは100%主に頼る生き方を今からして行くのです。「主を敬う心は、今の命と後の命が

約束されているので、万事が益になります。」この心は、少なくとも100%主に頼る生き方から

生れてきます。この心を持っていれば、絶対主の前に通用するということです。これは、私たちが

今までイエス様から教えられてきた、「悔いし砕かれた心さえあればいいのです」という教えとも

ピッタリ合います。

(結) 「この事は信頼できるものであり、本気でもって、私たちは、この生ける絶対主に望みを

置いてくのです」(4:9、10)。ですから、私たちがこれまで、ずっと教えられてきた

「悔いし砕かれた心」は、間違いではありません。むしろ、これこそが天に通じる一番大切な心で

あったのです。
ところが、「自分はゼロだ」という悟りは、自分の悟りに頼らないことです。

しかし、人は、どうしても自分の正しさの誇りから抜け出せないようです。
だから、100%罪人

であることを理解すべきです。何故なら、100%罪人のすることは、「油まみれの汚い手で、

お茶碗を洗おうとしていることと同じ」ことですから、自分には頼れないのです。そのことを、

私たち自身の頭で理解できたら、100%罪人は、どうあるべきか心に入ってくるはずです。

そして、「自分は出来ると思っていたことが、絶対主の前に通用しない」と分かった時、

ゼロである私たちのために、イエス・キリストの贖いがあったことが心から感謝できるでしょう。

すると、「生ける絶対主に望みを置く」ということが、どんなに大切なことかが分ってきます

(4:10節)
そこで、「ゼロの罪人だからこそ、100%絶対主に頼り従っていくのだ」

という心をもって、すべての霊を吟味していきましょう。
 


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