第Ⅰテモテ4:1~16
(起)「100%罪人の人間が、良きことを行う能力はゼロである」ことを悟り、「生ける絶対主
に100%望みを置く」ことについて、学んでいきたいと思います。
(承) さて、まずロマ書3:12では、「善を行う者はいない。一人もいない。」とあるように、
人は100%罪人です。ですから、100%の罪人が、たとえ良き事を行っても、絶対主に受け
入れられる行いとはなりません。ですから第Ⅰテモテ4:1節を見ると、「後の時代になると、
ある人々は、惑わす霊と悪霊の教えとに気を取られて、主を信じる心から離れ去るでしょう。」と
あるように、終りの時代に入っていくと、100%の罪人は背信を行う時代になっていきます。
それは、惑わしの霊が働く時代になるからです。そこで、私たちが気をつけなければならないことは、
この惑わしの霊を見極めることです。目に見えることなら、それが本物かどうか、自分の目で実際
に見れば確認することができますが、霊の世界はそういうわけにはいきません。霊の世界は目に
見えませんから、それが事実だと証明する時、裏付けが必要になってきます。その裏付けが、
いわゆる「しるし」です。しかし、この印が、絶対主からのものか、悪霊からのものかを見極め
なければ成りません。これからは、今まで私たちが考えていた常識的な物の論理を越えた不思議な
しるしによって目が曇らされていく時代になっていきます。すると、人間の頭では判断できなく
なり、「無秩序な霊の世界」の中に惑わされて行くのです。これが、悪霊がやろうとしている
ことです。悪魔のしるしが行われると、すべて正しいと思わされる世界になって行くのです。
ですから、惑わされやすく怖い世界になって行きます。
(転) では、そういう中で、私たちはどこに信頼を置き、どのように真理を見極めていけば
いいのでしょうか。その大事な点は、まず絶対主の前に、「自分は100%罪人である」という
ことを自覚しておくべきです。私たち人間は皆、「自分は正しいのだ。自分は出来るのだ」という
考えを、大なり小なり持っています。そして、大げさですが、最終的には、「自分は神だ」と思う
心さえ出てきます。もし、その傲慢な思いにブレーキがかからなければ、収拾がつかなくなり、
絶対主は、何もかも全部滅ぼさなければならなくなります。ですから、人間がそういう方向に
向かう危険性があったが故に、絶対主は人間を罪の中に閉じ込められ、人は罪の中に生れるよう
にされたのです。人間が罪人になったということは、不完全になったということです。
そのことを思い知らせることが、アダムの堕落でした。ですから、私たちはまず、「人間は、
絶対主と対等ではない」ということを知るべきです。そして、「自分の持っている能力は、絶対主
には通用しない」ということ、また、「自分の持っている知識はほんの一部であって、絶対主と
比べたら雲泥の差がある」ということを、理解することです。
今日お読みした4:8を見ると、「主を敬う心は、今の命と後の命が約束されているので、万事が
益になります。」とありますが、「主を敬う心」というと、行いの方向に心が向きがちですが、
この主を敬う心は、自分の中に傲慢な思いがあったら出て来ません。むしろ、「自分たちは罪人で、
ゼロなのだ」と悟ることによって、主を敬う心は出てきます。私たちは、この心に焦点を合わせて
いくべきです。これからの時代は、いろいろな霊的なことが起こり、惑わす霊の働きが起こって
きます。その中で、悪霊の働きをしっかりと見極め、真実な主の御霊に留まり、信仰の心を維持
していくことが大事です。そのためには、先程申しました、「主を敬う心」をちゃんと持っている
ことです。例えば、もし心の中に、「70%は自分の努力でやってきた」という思いがあれば、
「主を敬う心は、残りの30%しかありません。」そうではなく、100%主を敬う心をもって、
100%主に頼っていく心でなければ成りません。なぜなら、100%罪人だからです。だから、
私たちは100%主に頼る生き方を今からして行くのです。「主を敬う心は、今の命と後の命が
約束されているので、万事が益になります。」この心は、少なくとも100%主に頼る生き方から
生れてきます。この心を持っていれば、絶対主の前に通用するということです。これは、私たちが
今までイエス様から教えられてきた、「悔いし砕かれた心さえあればいいのです」という教えとも
ピッタリ合います。
(結) 「この事は信頼できるものであり、本気でもって、私たちは、この生ける絶対主に望みを
置いてくのです」(4:9、10)。ですから、私たちがこれまで、ずっと教えられてきた
「悔いし砕かれた心」は、間違いではありません。むしろ、これこそが天に通じる一番大切な心で
あったのです。ところが、「自分はゼロだ」という悟りは、自分の悟りに頼らないことです。
しかし、人は、どうしても自分の正しさの誇りから抜け出せないようです。だから、100%罪人
であることを理解すべきです。何故なら、100%罪人のすることは、「油まみれの汚い手で、
お茶碗を洗おうとしていることと同じ」ことですから、自分には頼れないのです。そのことを、
私たち自身の頭で理解できたら、100%罪人は、どうあるべきか心に入ってくるはずです。
そして、「自分は出来ると思っていたことが、絶対主の前に通用しない」と分かった時、
ゼロである私たちのために、イエス・キリストの贖いがあったことが心から感謝できるでしょう。
すると、「生ける絶対主に望みを置く」ということが、どんなに大切なことかが分ってきます
(4:10節)。そこで、「ゼロの罪人だからこそ、100%絶対主に頼り従っていくのだ」
という心をもって、すべての霊を吟味していきましょう。 |
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