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2015年12月6日


義というものは、絶対主から与えられるものであって、
自分で掴むものではない



ピリピ人への手紙3:9~16




(起)「義というものは、絶対主から与えられるものであって、自分で掴むものではない」

ということについて、学んでいきたいと思います。


(承) さて、今お読みした中に、「私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じる

信仰に基づく義、すなわち、主を信じ仰ぐ心に基づいて、
絶対主から与えられる義を持つ者

だからです」という御言葉があります。この御言葉の意味は、「義というものは、絶対主から

与えられるものであって、自分で掴むものではない。」「自分の努力の成果によって、義と

されるかどうかが決まるのではない」ということが記されています。しかし、何故だか、多くの

クリスチャンは、人が律法による自分の義を積み上げて行くことは正しいと考えて、自分の

行いを誇っています。すなわち、「地上での努力によって義を積み上げ、それを持って天に

行こうとしている」のです。それは、「自分の身勝手な努力を実行して、人に認められたい。

自分の行いによって、のし上がりたい。そして、自分の思い通りに成果を表わしたい。」という

願望を、人間は持っているからです。



(転) では、その思いはどこから来ているのでしょうか。それは、ルシファーです。

ルシファーは、美の極みである自分自身を見た時、「自分は何でも出来る」と思い、のし上が

ろうとしました。そして、絶対主をも越えて、「自分の思い通りに世界を治めていきたい」

という気持ちを持ったのです。これは、先程お話しした、人間が持っている願望と全く同じです。

ですから、人間はこのルシファーの影響を受けているということです。しかも、私たちはイエス

様を信じてからでも、この思いを持ち続けています。どこまでも自分自身の行いによって、自分

自身を保っていこうとするのです。そして、自分の能力によって、自分の存在感を表し、

のし上がろうとするのです。本来ならば、私たちは罪人ですから、正しいことをしたいと

思っても出来ない者です。その出来ない自分を本当に知ったからこそ、イエス様に救いを求めた

のです。ところが、クリスチャンになると、「救われたのだから、良き行いをしていかなきゃ

いけない。絶対主に喜んでもらうために正しいことをしていくのは当然だ」と思い、更にその

思いが強くなっていくのです。確かに、良き行いをしていくことは、良いことかもしれません。

でも、それはどこまでいっても、罪人の自分が頭で考えた良き行いにすぎません。過去において

親から教えられたことや、学校で学んだこと、自分が勝手に良いと思ったことを、ただやって

いるにすぎません。絶対主の意向を理解してやっていく良き行いであるならば良いのですが、

そうでなければ、絶対主には受け入れられません。もし私たちが自分勝手な努力を誇って、

「私はあれをやりました。これもやりました」と言って、絶対主の前に出て行こうとするなら、

私たちは恐ろしい目にあいます。絶対主から、「お前は自分の努力の故に、天に来たと言うのだ

な。だったら、お前には御子の贖いは必要なかったということか」と言われ、地の底に落と

されてしまうのです。
クリスチャンは、救われたからと言って、罪人に過ぎません。ですから、

むしろ罪人がイエス様の贖いによって救われたのですから、元々の罪深い自分の弱さを認めて、

自分の限界を知ってへりくだって行くべきです。それなのに、「自分の行いや努力によって

認められたいという願望を抱き続けることは、ルシファーと同じ道を辿る恐ろしい罪である」

ということを自覚すべきです。
と同時に、自分勝手な努力によって成し遂げた誇りは、一つも

天には繋がらないということを悟るべきです。逆に、たとえ何かを成し遂げたとしても、「全部

助けていただいたから出来たのです。自分じゃありません」という罪人相応のへりくだりを

持って、絶対主を仰いで行く時に、初めて御国のどこかに入れてもらえる可能性が与えられる

のです。


(結) ですから、私たちは自分の考えや自分の能力に頼って、自分で義を掴むのではなく、

どこまでもへりくだって絶対主を信じ仰いで行くのです。パウロさんも、「私は既に獲得した

などとは思っていません。ただこの一事に励んでいます。」と、ひたすら御国に目標を定めて

走っていると言っています。ですから、私たちも同じように、自分のための努力ではなく、

絶対主の意向を行う努力をいつも心の内に覚え、その中に歩む道を全うし、この一事に励んで

行くべきです。パウロさんは、熱心な律法主義者であり、「律法の義については落ち度のない者、

熱心の点では教会を迫害した者」という肉の誇りがありました。しかし、「そんな自分の努力で

勝ち取った誇りは、一つも天に行く保証にはならない」ということが分かり、ゴミだと言い

ました。私たちも同じです。「自分勝手な努力で何かを獲得して、それによって受け入れてもら

おう」と誇っても、それは一つも御国に繋がりません。
私たちが御国と繋がるために必要なもの

は、絶対主を信じ仰ぎ、従順に従っていく心だけです。「義というものは、絶対主から与え

られるものであって、自分で掴むものではない」からです
どうか、このことを心に留めて、

歩んでいきましょう。 

 


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