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2015年11月29日


私たちの命は、
主の目的のために使っていただく命である



使徒の働き22:1~21




(起)パウロさんの回心の証から、「私たちの命は、主の目的のために使っていただく命である」

ということについて、学んでいきたいと思います。


(承) さて、この箇所は、パウロさんがダマスコの途上でイエス様と出会ったことによって、

「自分の生き方が180度変わったこと」を、証ししているところです。まず、1~5節を見て

いきますと、イエス様と出会う以前のパウロさんについて書かれています。その時、パウロさん

はクリスチャンを迫害し、男も女も縛り上げては獄に投じ、彼らを死に至らせるということを

していました。なぜなら彼は、「パリサイ人であり、律法について厳格な教育を受け、自分の

学んで来た道こそが、絶対主と繋がる道だ」という確信を持っていたからです。ところが、

イエス様と出会った瞬間に、律法を守ることが、自分の人生のすべてだと思って来たことや、

自分が培ってきた誇りが「全部ゴミのようであった」と分かったのです。そこでパウロさんは、

「主よ。私は何をしたら良いのでしょうか」とイエス様に尋ねました。すると、「ダマスコに

行きなさい。そこで、あなたがするように定められた事が告げられます」と言われたのです。

パウロさんは言われた通りにしました。そして、その時から彼の人生が180度変わって、

絶対主の御子イエス・キリストにある生き方を始めていくようになったのです。すなわち、

自分の考えではなく、直接に絶対主の御心の沿った生き方へと、自分の人生のシフトを変えて

行ったのです。


(転) では、パウロさんに対する絶対主の御心とは何だったのでしょうか。それは、まず、

エルサレムで証をし、その後異邦人に対する伝道(22:21)、そして、ローマに行って

証しすること(19:21、23:11)でした。しかし、彼の歩んだ流れを見ていくと、

その道のりが、とても大変なものでした。特に、ローマに行くまでには、多くの困難と苦しみ

がありました。まず、エルサレムで起こった暴動と、カイザリヤの獄で2年間留め置かれ、

ローマへ行きたくても、なかなか行くことが出来ませんでした。その後、やっと解放され、

ローマに向かって出航することが出来たのですが、その途中で大嵐に巻き込まれてしまい、

助かる望みさえ一切消えかかったのです。そこで、生きた心地のしない日々を味わいながら、

「なんで絶対主の御心の中に歩んで来たのに、こんな目に遭わなくてはいけないのか」、

「どうして絶対主は自分を見捨てられたのか」という気持ちになってしまいました。

ところが、この荒れ狂う暴風でさえも、絶対主の目から見たならば、すべて全能のお方の御心

の中にあったことで、どんなに災いを受けようが、苦しみを受けようが、絶対主にとっては関係

のないことでした。たとえパウロが働きの途中で助かる望みが消えかかったとしても、それで

絶対主の計画が変わることも、頓挫されることもないのです。すべてが
、初めから絶対主の

意向の中でなされたことであって、被造物の上に立って見ておられる絶対主にとっては、何ら、

意に介するものではなかったからです
。だからパウロさんは、途中で何度も辛い目に遭おうが、

最後にはローマに辿り着いたのです。そして、絶対主の意向の通り、ローマで証しすることが

出来ました。だから、パウロさんの人生は、パウロさんのものではなく、絶対主のものでした。

このように、パウロさんにとって、自分の人生ではなく、絶対主の計画が実現すればそれで

良かったのです。ですから、その後のパウロさんは、また捕えられ、殉教して、命を閉じて

いきます。このパウロさんこそ、命を懸けて、最後の最後まで絶対主の意向を第一にして、

従った人です。また、
自分の命の使い処をちゃんと理解し、「自分の命を捨ててでも、絶対主に

従っていく」という、へり下りの心を持って生涯を全うした人
です。

(結) そこで、私たちもこのパウロさんの生き方を目指していくのです。

私たちは、「この地上で成果を上げて生きていくことが、自分にとっての幸せだ」と思ったら

大間違いです。そのように、「自分はこれだけのことをやってきた。これだけのことが出来た」

という誇りを持って人生を終えたならば、最後は、ルシファーと同じ場所に行くことになります。

なぜなら、
ルシファーは、自分の能力に頼って絶対主と対等になろうとしたからです。これを、

絶対主は捨て置きません。もしルシファーと同じ思いを持てば、私たちもルシファーと同じ運命

を辿ることになり、
命を頂いたこと自体が呪いとなってしまいます。ですから、自分の思いを

実現するのではなく、むしろ、
ただ絶対主の意向だけが成る事を願い、その考えに身を委ねて、

絶対主から頂いた仕事を最後までやり終えて行くことが出来れば、私たちがこの地上で生きた

価値と意味があります。
そして後は、パラダイスを待つだけです。ですから、私たちはどこま

でも、仕えて行くしもべの心を持って、絶対主の意向のために、心を使って行くのです。

そして、いつも絶対主の目から物事を見て考え、絶対主が良しとされた道を歩んでいくのです。

どうか、「私たちの命は、主の目的のために使っていただく命である」ということを、

このパウロさんの生涯を通して確信して行きましょう。そして、ここに心を結びつけて、

歩んで行こうではありませんか。 

 


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