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2015年11月1日


自分は罪人だと認めた先に


使徒の働き7:51~60




(起)キリストの本当の救いは、自分は罪人だと認めた先にあるのだということについて、

学んでいきたいと思います。


(承) さて、ステパノはユダヤ人たちに向かって、イスラエルの過去の歩みを語りながら、

ユダヤ人たちの罪をはっきり指摘、悔い改めて、キリストによる罪の赦しを得るように語って

います。「あなた方は、先祖たちのようにいつも聖霊に逆らい、先祖たちが預言者を殺したよう

に、今あなた方も聖なる方を殺す者となったのです」と。すると、これを聞いた人々は、心の底

から激しく怒り、ステパノに向かって歯ぎしりしました。彼らは、自分たちの罪をはっきりと

示されたにもかかわらず、その罪を素直に認めて悔い改めるどころか、却って腹の底から怒って

歯ぎしりし、ステパノを殺してしまったのです。


(転) それではこんな時、私たちはどうするのでしょうか。実は、私たちも彼らと同じ心を

持っている者です。人は、怒られたり、自分の罪を指摘されたりすることを極度に嫌がります。

だから、言われていることが事実であっても、そのまま受けとめ悔い改めようとしません。

では、何故、私たちは怒られることを嫌がるのでしょうか。それは、子どもの頃から、「怒られ

ることはいけないことだ。怒られることは恥だから、怒られたくない」という考え方が身に

ついています。よく、人が怒られているところを見ると、「自分はあんなふうに怒られたくない。

だから怒られない人間になろう」と考えます。そして、怒られないためには平気で嘘もつき、

人の所為にして怒られないようにふるまうのです。このように、「とにかく怒られない人生を

歩みたい。傷つくのは嫌だ」という中で育ってきました。ところが、思春期になると、自分自身

の心の中を見つめるようになります。すると、自分自身の心の内側から出てくる嫌な思い、自分

自身の罪について見るようになり、「怒られる自分を変えられない」ことに気付き、自己嫌悪に

陥ります。すると、「自分は罪人だ。自分はなんて嫌な奴だ」と呪いたくなるのです。

そんな中で、自分自身の心の罪に悩みはじめ、どうしようもない惨めな自分に嫌気を差し、

助けを求めたのがイエス様でした。そして、「イエス様は、罪人を探して救うために来てくだ

さったのだ」と分かって、私たちはイエス様を信じました。するとその瞬間に、今までの心の

苦しみや葛藤から解放されるという不思議な平安を味わいました。ところが、問題はその後です。

しばらくすると、その平安も消え去り、イエス様を信じた時の心の平安が消えて、依然昔のまま

の嫌な自分の姿を見るのです。そして、罪の心が消えていないことを知るのです。罪の心が

消えていないのですから、私たちはまた罪を犯します。罪を犯せば、当然怒られます。すると

また、「怒られるような自分ではダメだ」という中に入ってしまうのです。そして、クリスチャン

であるのに、「怒られることを嫌がり、自分自身の罪を素直に認めようとしない」開き直った

傲慢の姿を現します。こんな自分を、私たちは今もなお抱え込んでいます。実は、
私たちがキリス

トの贖いの救いを味わうのは、天のパラダイスに引き上げられた時です。この体が変えられて罪

から解放された時に救いを実感します。
ですから、地上にある間は、罪人が罪人であることを

認めて行くのです。それを認めないことは、間違っています。主は、
罪人の贖いをして、天に

引き上げるために
十字架にかかって死んで下さったのですから、この地上では、「自分は罪人だ」

ということを自覚し、「罪の責任」は負って行くのです。だから、絶対主の側から見るならば、

自分自身の罪を認めて責めている位で丁度です。しかし、私たちは、罪人のままでいる自分を

嫌がり、何とか「変わりたい、変えよう」とあがきます。しかし、いくら頑張っても、自分の心

に刺さっている罪の棘は、決して抜くことは出来ません。この地上では、どこまでいっても罪人

なのです。だから、私たちは自分自身の罪の故に失敗もします。失敗をすれば、当然怒られも

します。その時に、「怒られても当然の者だ」という砕かれた心を持って、へりくだっていく

べきです。そうするならば、絶対主は「罪人が罪人として認めているその心を、蔑まない」と

言って下さるのです。これが、私たちにとっての地上での救いです。
本当の救いはパラダイス

です。
今まで、「怒られることはいけないことだ。怒られるような罪人ではダメだ」と思って

いましたが、実はそうではなく、
罪人である自分を認めたその先に、救いがあるのです。


(結) ですから、「怒られる自分ではダメだ」と言って、罪人である自分自身を受けとめよう

としないのは、間違っています。たとえイエス様を信じたとしても、罪人である私たちが義人に

変わるわけではありません。依然、罪の棘は刺さったままなのです。それが抜かれるのは、

パラダイスに行った時です。
だから、私たちはこの地上にいる限り、罪人としての責任は取って

いかなければなりません。すなわち、「何も出来ない自分、怒られる自分、罪人である自分。

それが自分なのだ」ということを、認め続けていかなければならないのです。その自覚だけは

決して失ってはいけません。その自覚がある者に対して、「そういう者でいいのです。地上に

ある間は、そこから主に頼って始めていきなさい」とイエス様が言ってくださる、救いがある

からです。救いとは、「自分は罪人だ」と認めた先にあるものです。イエス様を信じた時が

そうだったように、信じた後もそうなのです。どうか、このことを心に留め、この本当の救いを

味わっていこうではありませんか。

 


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