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2015年10月18日


自分の肉の限界を正直に認める


マタイの福音書26:30~35




(起)ペテロさんが「三度主を知らない」と言った、彼のつまずきを通して、「自分の肉の

限界を正直に認める」ということについて、学んでいきたいと思います。


(承) さて、イエス様は十字架にかかられる前に、弟子たちに向かって「今夜、あなた方は、

皆わたしの故につまずきます」と言われた時、ペテロさんは、「皆の者がつまずいても、私は

決してつまずきません」と言い切りました。そこで、イエス様は彼に「今夜、鶏が鳴く前に、

あなたは三度『わたしを知らない』と言います」と言われたのです。それでも尚、彼は「たとい

、あなたと一緒に死ななければならないとしても、『あなたを知らない』などとは、決して申し

ません」と言い添えました。彼がここまで言い切ったのは、「自分は出来る」と思っていたから

です。また、ペテロさんは長男ですから、「たとえ弱さがあったとしても、『自分がこうすべき

だ』と思ったら、それをやり通さなければいけない」という強い正義感があったのかもしれま

せん。それだけではなく、彼はユダヤ人でしたから、常に律法の教えの中にありました。律法と

いうのは、罪人である人間に対して、「これをやりなさい。あれをやりなさい」と教えていく

ものです。子どもの頃から律法を聞いて育ったペテロさんは、「出来ない自分であっても、やり

ます」と言うことが正しいと考えていました。それは、「出来ない」と言えば、絶対主に逆らう

ことになってしまうからです。ですから、たとえ出来ないと思っても「やります」と前向きに

答えて行くことが正しいと、完璧にすり込まれて育っていたのです。だから、ペテロさんはイエス

様の言葉を打ち消して、「たとい、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを

知らないなどとは、決して申しません」と言い切ってしまいました。


(転) では、私たちはどうでしょうか。実は、私たちもペテロさんと同じ教育を受けて来た者

です。たとえ異邦人であっても、人間として正しいと思われることを教えられて生きて来たのは

同じです。私たちは、小さい頃から学校に通い、「良い子になりなさい」と教えられ、良い子に

なれば、先生からも褒められます。だから、「良い子になることが正しい子」、「出来る子になる

ことが正しい子」という考え方が身に付いてきています。そして、人間は皆、「良い子になり

たい」、「出来る子になりたい」という願望は、「出来る、出来ない」に関わらず皆持ち続けて

います。しかし、人間は「何でもできる」というわけではありません。だから、「どうしても

出来ない」という壁にぶち当たります。それでも、その出来ない自分を見せつけられて喜ぶ人は

いませんから、「なんとかその壁をはねのけて、できる者になりたい」という憧れを持ち続けて

行きます。しかし、イエス様の目から見たならば、その考え方は100%間違っています。

天からの見方は、全く正反対です。すなわち、「人間は、出来る子になれない」という事実を

認めなさいと言われています。なぜなら、人間は生まれながらに罪人だからです。正直な自分を

見つめれば、「どうしても出来ないという事実にぶち当たります。」だったら、「その事実を

正直に認め、主に救いを求めなさい」ということです。ところが、出来ない自分を認めたら、

人間として前向きに生きて行くことを放棄することになります。しかも、自分勝手な生き方を

容認することになります。それでは、社会人として成り立ちません。むしろ出来なくても、

頑張り続けて行くことが正しいのだと思っています。しかし、ペテロさんは、自分自身の失敗を

通して、出来ない自分を思い知りました。彼は、「出来ないと思うことも、すべきだ」と思って

いました。ところが実際は、「たとえ一緒に死ぬことがあっても、『知らない』などとは決して

申しません。」と言いながら、自分の身に危険が迫った時、「誓って知らない」と三度も口に

出してしまったのです。そして、「自分はイエス様を裏切ってしまった最低の人間だ」という

事実を思い知ったのです。と同時に、
「今まで、出来る者と思っていた、またそうありたい。

そうあることが正しい」と思っていたことが、何も出来なかったという現実に気付かされ、

罪人としての自分自身の限界を思い知ったのです。


(結) 私たちも、ペテロさんと同じです。私たちは、これまでの人生の中で、ペテロさんと

同じような経験を何度もしてきました。「自分はどんなに恥かき者で、馬鹿な者で、嘘つき者で、

本当に自分は何も出来なかった」ということを、味わって来ているはずです。それなのに、

その事実を正直に認めようとしないのはどうしてでしょう。ただ、「ダメな人間」と思われたく

ないプライドのためです。現実は見栄を張っているだけで、実際は受け入れられるようなところ

は一つもない、全的に堕落した罪人なのです。しかし、その現実を認めない者に、イエス様の

救いが必要でしょうか?イエス様は、そんな罪人が限界を知って、「私たちは罪人です。ダメな

者です。何も出来ません」と言って、へりくだる者に目を留めて下さり、「私は、あなたのような

人の為に、贖いの代価を払ってきました。」と仰って下さるのです。
「だから、私たちは、

自分の限界を覚えて、罪人である自分を認めてへりくだるのです。」
そして、この次のステップ

は、その私たちがイエス様の贖いを感謝して、「イエス様のために、一つでも二つでも役に立ち

たい。やらせてください」という心を持って、イエス様に頼って仕えていくことです。この生き方

は、この世では教えていません。この世では、「ダメな者」と思ったら終わりです。ところが、

私たちの場合はイエス様がおられますから、ゼロである私たちも、イエス様に頼って一つでも、

二つでも、やらせてもらえる可能性があるのです。だから、限界を知れば、イエス様に頼ります。

イエス様にあって、一生懸命にやろうとします。私たちは、自分の生まれながらの能力で、

「自分はあれが出来た、これが出来た」と思いたいのです。「出来ないのに、出来る者になり

たい」という憧れは、間違っています。どうか今日、その間違いに気付き、
「限界のある人間だ」

という事実を正直に認めましょう。そして、「こんな者ですが、イエス様にあって、出来ることを

やらせてもらいます」という心で、始め出そうではありませんか。

 


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