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2015年10月11日


患難時代に、最後まで耐え忍んでいく信仰


マタイの福音書25:1~13




(起)「患難時代に、最後まで耐え忍んでいく信仰」(マタイ24:13)を養っていくことに

ついて、学んでいきたいと思います。


(承) さて、25章に出てくる10人の娘のたとえ話を見ていきたいと思います。

あるところに十人の娘たちがいて、その娘たちは、花婿を迎えるための準備をしていました。

しかし、花婿がいつ来るかは分からないので、「もしかしたら夜来るかもしれない」ということ

で、五人の賢い娘たちは、明かりと一緒に油も用意しておきました。ところが、残りの五人の

愚かな娘たちは、油を用意していませんでした。そんな中で突然夜中に、「さあ、花婿だ。

迎えに出なさい」という声がしたので、娘たちは起き上がり、明かりを整えました。しかし、

油を用意していなかった愚かな娘たちは、その声を聞いて慌てて油を買いに出かけて行きました。

ところが、愚かな娘たちが店に行っている間に花婿は到着し、賢い娘たちだけが花婿と一緒に

婚宴の席に着きました。しかし、その後愚かな娘たちが帰ってきた時には、もう戸が閉められて

おり、「開けて下さい」と懇願しても「わたしは、あなた方を知らない」と言われて、中に入る

ことが出来なかったのです。


(転) それでは、このたとえ話をイエス様はどういう意味で語られたのか、考えて見たいと

思います。実は、この話は、患難時代について語られた譬え話で、「花婿が来る時」というのは、

「イエス様がこの地上においでになる時」の再臨のことです。そして、「油を用意していた

娘たち」と、「油を用意していなかった娘たち」とは、患難時代の中にあって、「イエス様を

迎え入れるための信仰の心を、ちゃんと持っていた者と、それを持っていなかった者」というこ

との譬えです。私たちは、これから患難時代に入り、まさにその中を通って行く者です。

マタイ24:13には、「最後まで耐え忍ぶものは救われます。」とあり、主の再臨は、

24:15にある「荒らす憎むべき者」が現れてから、24:30で主の再臨があると、

イエス様は明確に語られています。そして、それに続く31節に、携挙が起こります。この
携挙

の時期は、黙示録に書かれてある記録と一致します
(黙14:14~16)。ですから、

患難時代の中で、イエス様がおいでになるのは、患難時代の最後の後期です。だから、最後まで

耐え忍び、信仰の心を表していった者たちは、イエス様をお迎えすることが出来ます。また、

イエス様がその者たちを天に引き上げてくださいます。ところが、そうじゃない者たちは、

「わたしは、あなた方を知らない」と言われてしまうのです。この現実があるということを、

この25章の譬え話を通して、イエス様は語られたのです。では、「わたしは、あなた方を

知らない」と言われる人々は、どういう人々かと言いますと、今多くの人たちは、
「患難時代の

前に、クリスチャンは天に引き上げられる」
と考えています。しかし、聖書をよく読んでいけば、

その考えは間違っていることが分かります。まず、マタイの福音書24:15を見ると、

「荒らす憎むべき者が現れる」とあります。次に21節を見ると、「大きな患難が起こる」と

あり、24節を見ると、「偽キリストたちや、偽預言者たちが起こる」とあり、その後で、天変

地異が起こり(29節)、ようやく、その後で天の雲に乗って力と輝かしい栄光とを持った人の

子が来られるのです。(30節)携挙が起こるのはその時です(31節)。患難時代に起こって

くる出来事の大筋は、ここにはっきり書かれています。そして、この流れは黙示録とも一致

します。このように聖書をよく読んでいけば、
「荒らす憎むべき者」が出たあとに、イエス様が

おいでになることは明白であり、これは間違いのないことです。
だからイエス様は、「目を

覚ましていなさい」
と何度も言われおり、逆に「患難時代の前に天に上げられるから大丈夫だ」

と、考えている多くのクリスチャンは、「眠ったままでも、患難の来る前に天に引き上げられる

のだから、眠っていてもいい」ということになります。これは、とんでもない間違いです。

主は、能天気な私たちに、この譬え話によって警告されているのです。


(結) ですから、私たちは目を覚まし(25:13)、聖書をよく読んで、聖書の中に書かれて

いる大筋をちゃんと理解していかなければなりません。主は、この譬え話に基づいて、残された

この地上の歩みをどのように歩んで行くべきかを悟らせ、「信仰に聖霊の油を注いでいなさい」

と教えられたのです。人から聞いた聖書の解釈や教えだけに頼っていてはいけません。自分自身

で聖書をよく読み、「患難時代の前に天に引き上げられるのと、患難時代を通って行くのと、

どちらが正しいのか。」また、「自分はどちらを意識して、この終わりの時代を生きていくべき

なのか。」ということを、私たち一人一人が考えていかなければならないのです。今、そのこと

を学んでいないと、患難に入ってからでは遅いのです。備えのない信仰では、真剣な対応が

出来ません。仮に、艱難時代の前に携挙があったとしたら、「患難を通ると考えていた人」に

とっては、感謝なことです。しかし、
「患難を通らない」と考えていた人にとっては、

クリスチャンが患難の中に入った時、ただ大きなショックで潰されてしまうでしょう。


ですから、信仰には、聖霊による油が必要です。患難時代は、悪霊との一騎打ちです。

信じていれば大丈夫だという、そんな甘いものではありません。「命を失うことがあっても、

最後まで耐え忍んだ者」だけが、天に引き上げられるのです。どうか、今、目を覚まし、

最後まで耐え忍んでいく信仰を養って行きましょう。

 


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