戦国時代の真只中で、キリシタン同士が敵味方で戦い合い、友達であり、親友であった
キリシタンとも、戦いで合間見えなければなりませんでした。彼は、関ヶ原の戦いで
高山右近を助けた石田三成を捕え、処刑しなければなりませんでした。
この時代は、仕える殿が変われば、その新しい殿の心に合わせていかねばなりません。
だから、家康に従わざるを得なかった吉政さんは、「右近殿に申し訳ないことをした。
分っていながら、そうしたのです。」と自分の愚かさを一生涯背負って行かねばならないと
後悔していました。ですから、家臣たちには、「本当の殿を知って欲しい」と思い、
「イエス様こそ、わが殿です」と告白して、この殿に従ってほしいと思ったのです。
この戦国時代は、下剋上の時代で、いつ殿を裏切るか分りません。人の心はいつも揺れ動き、
どうしていいのか分らないことがたくさんありました。ですから、戦国時代に、殿に仕える
ということは、心が伴っていなければ、本物とは見なされません。頭だけの従い方なら、
いつ損得で裏切るか分らないからです。ですから、上に立つ殿は、武将たちが
「本気で従って来ようとしているのか」を見ています。同じように、私たちの殿である
イエス様も、頭の従い方ではなく、「私たちが心から本気で従おうとしているか」を
知るため、いつも心を見ておられるのです。心のない従い方は、本物の従い方ではあり
ません。この本物の従い方とは、「イエス様の思いに合わせていくことです。」だから、
イエス様の思いに合わせようとしなかった私たちは、これまでの従い方を悔い改め、
徹底的にイエス様の思いに合わせる従い方をすべきです。そのためには、「砕かれた心」が
必要なのです。 |
|
|