生まれながらに原罪の中にある人間は、嫌われ・叱られ・怒鳴られ・侮られ・バカに
され・不安になり・恐れ・弱さに怯えて丁度の者です。それなのに、必死になって
認められようとし、崇められ、誉められ、尊敬されようとするのは、どうしてでしょうか?
それは、この世の教育が人に認められる人間になることを教え続けているからです。
この世の教育は、絶対主に認められる教育をしていません。このギャップから、なかなか
クリスチャンは抜け切れないのです。人に認められることが正しい事で、正義であると
思い続けているからです。原罪の中に生まれて来た人間に正義があるのでしょうか?
私たちは罪そのものです。だから、嫌われ、叱られ、怒鳴られて当然です。むしろ、
嫌われたくないと思う心が罪なのです。ですから、自分を崩し、落すことは、絶対主の
前では当然です。格好を付けて、良い子であろうとする心が偽善なのです。だから、
私たちは、「砕かれた心」を持って丁度です。原罪を見ていない人間は、騙されている
のです。そして、「自分の義を立てようとして、絶対主の義に従わない」のです。
だから、いつも弁解します。言い訳をします。それは、自分を分ってもらおうとするから
です。原罪しかない人間が、自分の罪を分ってもらってどうするのですか?
もしかして、自分の正しさを分ってもらおうとしているのですか? 原罪は無条件に
罪人で、肉の性質の中に善は宿っていません。ならば、絶対主の前にへり下るのは当然
でしょう。その原罪は、イエス様が全て担って責任を取って下さいました。
あとは、自分の犯した罪過の責任ぐらいは取って行って当然でしょう。なのに、叱られて
弁解して、逃げていく人間は、最低です。その人は、絶対主の御子を再び十字架につけて、
さらし者とする人です。そんな人に同情はできません。原罪の事実は、絶対主の前にへり
下るだけの者です。自分を認めてもらうことではありません。 |
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