戦国時代の武将の信仰は、「滅私奉公」の精神を持って、イエス様に仕えて行きました。
それは、元々、武将の精神は、恥を受けるより死を選ぶ心がありました。ですから、自らの
失態は、切腹を以て責任を取り、又殿にお仕えする忠義の心は、自分の命を掛けてお仕えする
ことでした。それが、殿に仕える証しであり、いつも自分の命を奉じる気骨がありました。
この気骨とは、「自分の信念に忠実で、容易に人の意に屈しない気概」のことです。
すなわち、その気骨は、容易に裏切らないということです。戦国時代は、戦いに明け暮れ、
命の遣り取りをしています。ですから、その生き様は、常に生死を掛けた人生です。
だから、その生き様こそが、自分の命を掛けて、自らの信念を通す生き方だったのです。
すなわち、武士の忠義は、「滅私奉公」にあり、その忠義は、いかなることがあっても動かし
難いものでした。それは、たとえ自分の命を奪われることがあっても、信念を曲げない
心根が座っていました。そのような心根を持っている人が、一たび、イエス・キリストを
信じるならば、その信念を曲げない気骨は、自分の命を失うことがあっても、信仰を貫き
通し、イエス様を信じる信念を選んだのです。この精神こそ、まさに我を砕いた「砕かれた
悔いし心」のクリスチャンであり、「誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分自身を
徹底的に否定し、自分の十字架(命)を負って、わたしに従って来なさい。
なぜなら、自分の命を救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分の命を失う者は、
それを見い出す」と言われたイエス様のお言葉に従うクリスチャンの生き方と一致していた
のです。ですから、日本人の心には、一筋にイエス様に従う「滅私奉公」の精神があり、
日本の初代の人々の信仰には、本物の献身を貫いたキリシタンの証しがあるのです。
この血は、私たちの中にも流れています。ですから、私たちも「死に至るまで忠実であれ」
と言われたイエス様の心に従って行きましょう。
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