マルコ5:35〜43
(起)「復活にあずかる者が、全力を注いで主のわざに励む」生き方について、学んでいきたいと
思います。
(承) さて、ここを読んで分かることは、絶対主の御子であるイエス様と、人間であるヤイロの
気持ちに大きな違いがあることです。イエス様は創造主であり、すべてを知り尽くしておられます
から、人間のどんな病も癒すことができます。ですから、イエス様の中では、「分かりました。
一緒に行きましょう。」とヤイロに言われた段階で、この娘はもう癒されているのです。ところが
ヤイロは、「娘は今にも息絶えてしまうような中にあるから、早く来てほしい。」と、焦っています。
それは、「死んでしまったら終わりだ。」というこの世の中の常識が、ヤイロの中にもあったから
です。
(転) では、昔のキリシタンの方たちはどうだったのか、少し考えてみたいと思います。
彼らは、「死んだら終わり」というこの世の常識に立たず、「たとえ死んでも、自分たちは
パライソ(天国)だ。」と言って、迫害があっても抵抗せず、文句を一つも言わずに、命を
捨てていきました。しかし、それは彼らにとってイチかバチかの賭けでした。なぜなら、彼らは
聖書を手にすることができず、ただ宣教師から福音を聞いたことを心に留めていただけで、
「パライソがある。」というはっきりとした保証はどこにもなかったのです。「もし、人間的な
見込みで復活すると考えて、エペソで獣と戦ったのなら、それがなんの役に立つのでしょうか。」
(Tコリント15:32)とパウロが言っているように、もし、あんな辛い拷問にあって命を
捨てたにもかかわらず、もし天国がなかったら、「地上で苦しんだあれは何だったの?」となって
しまいます。しかし、それでも彼らは信じていきました。宣教師から聞いた言葉だけに心を寄せて、
ただ静かに拷問を受け入れ、殉教していったということは、本当にすごいことだと思います。
では、私たちはどうでしょうか?私たちは、このキリシタンの方たちとは全然違います。
私達には、イエス様の復活を記録されている聖書があります。Tコリント15:4〜6を見ると、
イエス様が復活されたことについて証明されていますが、この記録が今日まで残っているという
ことは、「それは嘘ではない。」と確認した者たちが、手書きで残していったからです。
もしこれが嘘だったら、今日まで残されることはなかったでしょう。私たちは、「イエスキリスト
の復活は、動かすことのできない事実である。」ことを、聖書に基づいて科学的に検証することが
できます。ですから、私たちは、人間的な見込みで信じているのではありません。イエス様が
復活されたのなら、私たちもその復活にあずかれるという確信に立てるのです。15:41〜43
にあるように、私たちは、今は死ぬ体をもっていますが、復活する時には、永遠の御国で生きて
いくことのできる、新しい体をいただくことができます。イエス様を信じて救われた者は
「死んで終わり」ではなく、復活し、罪から解放された身体に変えられるという希望があるのです。
こうして、私たちが、このような天のパラダイスに行ける恵みにあずかれる根拠は、イエス様の
復活の事実にあります。この科学的弁証ができる時代に生きている私達は、キリシタンの方たちの
時代の人々とは大きく違う、確信に基づく信仰の部分です。
(結) だからこそ、「私たちは堅く立って動かされず、全力を注いで主のわざに励んで行く」
のです。(Tコリント15:58) それは、偉そうに自分自身の努力を表すことではなく、
砕かれた心によって、イエス様を信じて受け入れた自分の意志に基づいていますから、クリスチャン
生活をこれまでの生き方から、すべてリセットし、砕かれた心を土台にして主に従う信仰を積み
上げて行くのです。それは、自分ができないと思ったことでも、主に頼って大胆にしていくこと
です。もともと自分自身は罪人で何もないのですから、遜って、どんなことにも主に頼って挑戦
していけます。「できません。」と言うものは何もなく、全力で主のわざに励んで行けばいい
のです。また、58節の最後に、「あなた方の労苦が、主にあって無駄にならないことを知って
いるのですから。」とあるように、復活にあずかる者たちにとって、地上での努力は絶対に無駄
にはなりません。それが絶対主のためであり、イエス様のためであるならば、その努力したことは
全て天に繋がるからです。ですから、私たちはこの地上で、イエス様に心を向けて努力をして
いきましょう。イエス様の心にあるものを、全力で実現していこうではありませんか。 |
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