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 2014年4月13日 





聞いた御言葉を心に根付かせ、
その心で歩んでいくこと




マルコ4:2425



(起)「聞いた御言葉を心に根付かせ、その心で歩んでいくこと」について学んでいきたいと

思います。


(承) さて、今お読みした中に、「聞く事柄に注意しなさい。」とあります。

これは、御言葉を聞く時、ただ聞けばいいというわけではなく、その聞いた御言葉を心に根付かせ

なければ、聞いたことにならないという意味です。例えば、教会に来てメッセージを聞く時、

たまたま自分が聞きたいと願っていた事柄であれば、「今日は来て良かった。」と聞いたことを

喜び心に留めます。しかし、自分が求めていたものとは違う場合は、「話は聞くには聞いたけど。」

と他人事で終わってしまいます。そういう場合は、聞いた御言葉は、すべてサタンに奪われて

しまいます。御言葉は、毎週語られていても、その人の内に価値あるものとして残り、根を生やす

ことはありません。


(転) では、私たちはどうすればいいのでしょうか。

先週、私たちは、「認められたい」という思いを持つことは間違っている、「罪人が罪人である」

ことを認めればいいんだ、ということを学びました。おそらく皆さんの中で、「自分は罪人である。

弱い人間である。」と、認めていない人はいないと思います。少なくともクリスチャンであるならば、

「罪人である。」と言われたら、「はい。その通りです。」と素直に言うことができます。

ところが、そこで問題なのは、
私たち自身が、「自分が罪人であること」を嫌っているという

ことです。
また、「罪人である」と認めていても、「罪人のままであってはいけない。

弱いままではいけない。」
と思っていることです。私たちは、子どもの頃から、

「そんな弱いままじゃいけないでしょ。だから頑張りなさい。」と教えられてきました。

だから、弱い自分をなんとか変えていこうとしています。しかし、その考え方は実は間違って

います。なぜなら、それはルシファーが落とされる原因となった心だからです。

イザヤ書14:12〜見ていくと、そのことが書かれています。美の極みとして造られた彼は、

心の中で
「自分自身が絶対主のようになって誉められたい。認められたい。崇められたい。」

と思ったのです。しかし、
それは絶対主に逆らう心であり、これがサタンの陥った罪の土台なのです。

そして、その栄光は全部取り去られてしまったのです。

 また、アダムとエバも、そのサタンに騙されて、「この実を食べるとき、あなたは目が開け、

絶対主のようになる」と言われて、同じ罪に陥ったのです。そして、その子孫である私たちもみんな、

この罪の中にあります。すなわち、サタンに騙された心を、未だに後生大事に抱き、「認められたい、

褒められたい」と思い続けることが、人間の成長に繋がると考えているのです。

又、この世の中の教育も、「認められる人間となるために、弱いままじゃいけないから、自分で

努力して変えていきなさい。」と教えます。

しかし、こう言う教えは、一見正しいように思えますが、間違っています。なぜなら、人間はみな

生れながらに罪人なのに、「認められて、褒められよう」と思うなら、罪人である自分を見失う

ことになるからです。絶対主はむしろ、
「罪人が罪人であることを認め、自分が認められるような

人間ではないことを認めていていることが、丁度です」
と言われるのです。その心が無ければ、

人間は、ルシファーのように錯覚して、傲慢になり、絶対主に逆らって、何でも自分はできると

思ってしまうのです。しかし、私たちは実際に、中学生位になると、自我に目覚めはじめ、

自分の愚かさに気づき、経験し、味わいます。「頑張っても頑張っても変われない自分自身の

虚しさ」を知り、悩み始めます。それは、正しい目覚めです。そして、「真実は何だろうか。」

と考え始めるのです。

 では、真実とは何でしょうか。

「自分自身は、生れながらに罪人で、救いの必要な弱い人間である」ということです。

だから、
自分の力では変われないので、私達には、救い主が必要なのです。

(結) では、今日この話を聞いて、「あ、そうだったのか。」と、本当に心で分るなら、もう

「人に認めてもらう事」が自分の人生の生き方ではなく、むしろ、もう
「自分が認められたいと

願うのは、止めとこう」
という気持ちをもって、遜って歩み始めることです。すると、初めて、

絶対主に従って行こうという謙遜な生き方が始まります。そして、その考え方に根が生え始めると、

はじめて、豊かな実を結び始めるのです。それは、
「私は、元々力のない人間ですから、

主の力を下さい。」
と、素直に遜って求めていくからです。すると、自分の栄光のためではなく、

主の栄光のために、主が褒められることを願って一生懸命に生き始めます。そして、イエス様に

助けられ、私たちが少しでも御心に適ったことができたならば、「よくやった。忠実なしもべだ。」

と、絶対主が誉めて下さいます。確かに私たちはダメ人間であり、本当に罪人で、弱い者です。

しかし、それを認めて行うなら、それは自分の力でやったことではありませんから、そこには

イエス様の栄光が現されるでしょう。このように、私たちクリスチャンは、自分自身が栄光を

取るためではなく、絶対主が崇められ、イエス様の栄光が現されることを願い、歩んでいくのが

正しい道なのです。このことを自分自身の心に入れて根を生やし、実を結んで行きましょう。

                                      

  
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