『聞いた御言葉を心に根付かせ、
その心で歩んでいくこと事』
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マルコ4:24〜25
(起)「聞いた御言葉を心に根付かせ、その心で歩んでいくこと」について学んでいきたいと
思います。
(承) さて、今お読みした中に、「聞く事柄に注意しなさい。」とあります。
これは、御言葉を聞く時、ただ聞けばいいというわけではなく、その聞いた御言葉を心に根付かせ
なければ、聞いたことにならないという意味です。例えば、教会に来てメッセージを聞く時、
たまたま自分が聞きたいと願っていた事柄であれば、「今日は来て良かった。」と聞いたことを
喜び心に留めます。しかし、自分が求めていたものとは違う場合は、「話は聞くには聞いたけど。」
と他人事で終わってしまいます。そういう場合は、聞いた御言葉は、すべてサタンに奪われて
しまいます。御言葉は、毎週語られていても、その人の内に価値あるものとして残り、根を生やす
ことはありません。
(転) では、私たちはどうすればいいのでしょうか。
先週、私たちは、「認められたい」という思いを持つことは間違っている、「罪人が罪人である」
ことを認めればいいんだ、ということを学びました。おそらく皆さんの中で、「自分は罪人である。
弱い人間である。」と、認めていない人はいないと思います。少なくともクリスチャンであるならば、
「罪人である。」と言われたら、「はい。その通りです。」と素直に言うことができます。
ところが、そこで問題なのは、私たち自身が、「自分が罪人であること」を嫌っているという
ことです。また、「罪人である」と認めていても、「罪人のままであってはいけない。
弱いままではいけない。」と思っていることです。私たちは、子どもの頃から、
「そんな弱いままじゃいけないでしょ。だから頑張りなさい。」と教えられてきました。
だから、弱い自分をなんとか変えていこうとしています。しかし、その考え方は実は間違って
います。なぜなら、それはルシファーが落とされる原因となった心だからです。
イザヤ書14:12〜見ていくと、そのことが書かれています。美の極みとして造られた彼は、
心の中で「自分自身が絶対主のようになって誉められたい。認められたい。崇められたい。」
と思ったのです。しかし、それは絶対主に逆らう心であり、これがサタンの陥った罪の土台なのです。
そして、その栄光は全部取り去られてしまったのです。
また、アダムとエバも、そのサタンに騙されて、「この実を食べるとき、あなたは目が開け、
絶対主のようになる」と言われて、同じ罪に陥ったのです。そして、その子孫である私たちもみんな、
この罪の中にあります。すなわち、サタンに騙された心を、未だに後生大事に抱き、「認められたい、
褒められたい」と思い続けることが、人間の成長に繋がると考えているのです。
又、この世の中の教育も、「認められる人間となるために、弱いままじゃいけないから、自分で
努力して変えていきなさい。」と教えます。
しかし、こう言う教えは、一見正しいように思えますが、間違っています。なぜなら、人間はみな
生れながらに罪人なのに、「認められて、褒められよう」と思うなら、罪人である自分を見失う
ことになるからです。絶対主はむしろ、「罪人が罪人であることを認め、自分が認められるような
人間ではないことを認めていていることが、丁度です」と言われるのです。その心が無ければ、
人間は、ルシファーのように錯覚して、傲慢になり、絶対主に逆らって、何でも自分はできると
思ってしまうのです。しかし、私たちは実際に、中学生位になると、自我に目覚めはじめ、
自分の愚かさに気づき、経験し、味わいます。「頑張っても頑張っても変われない自分自身の
虚しさ」を知り、悩み始めます。それは、正しい目覚めです。そして、「真実は何だろうか。」
と考え始めるのです。
では、真実とは何でしょうか。
「自分自身は、生れながらに罪人で、救いの必要な弱い人間である」ということです。
だから、自分の力では変われないので、私達には、救い主が必要なのです。
(結) では、今日この話を聞いて、「あ、そうだったのか。」と、本当に心で分るなら、もう
「人に認めてもらう事」が自分の人生の生き方ではなく、むしろ、もう「自分が認められたいと
願うのは、止めとこう」という気持ちをもって、遜って歩み始めることです。すると、初めて、
絶対主に従って行こうという謙遜な生き方が始まります。そして、その考え方に根が生え始めると、
はじめて、豊かな実を結び始めるのです。それは、「私は、元々力のない人間ですから、
主の力を下さい。」と、素直に遜って求めていくからです。すると、自分の栄光のためではなく、
主の栄光のために、主が褒められることを願って一生懸命に生き始めます。そして、イエス様に
助けられ、私たちが少しでも御心に適ったことができたならば、「よくやった。忠実なしもべだ。」
と、絶対主が誉めて下さいます。確かに私たちはダメ人間であり、本当に罪人で、弱い者です。
しかし、それを認めて行うなら、それは自分の力でやったことではありませんから、そこには
イエス様の栄光が現されるでしょう。このように、私たちクリスチャンは、自分自身が栄光を
取るためではなく、絶対主が崇められ、イエス様の栄光が現されることを願い、歩んでいくのが
正しい道なのです。このことを自分自身の心に入れて根を生やし、実を結んで行きましょう。 |
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