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 2014年12月14日    



『絶対主目線で挑戦していく』

エペソ1章3~19節



(起)絶対主目線で御言葉を受けとめ、それに挑戦して行くことを、学んで行きます。

(承) さて、私たちは聖書の御言葉を読む時、頭で知るだけでなく、御言葉を自分の心の中で

味わいたいと願っています。それは、イエス様を信じる時に味わった経験と似ています。

信じる時というのは、ただ頭だけで分かって「信じます」と言ったのではなく、語られた御言葉が

自分の中に入って来て感動し、心に結びつけられたので、「信じよう」という気持ちを持ちました。

ですから、それと同じように、御言葉は心に結びつけられて、初めて分かるものです。そして、

心が動いて救いを受け取った時、「絶対主に受け入れられたのなら、もう自分のためではなく、

絶対主のために生きたい」という純粋な気持ちにさせられました。ところが、その気持ちは長続き
                                                                       
 
しませんでした。信じて魂が洗われた時の平安はすぐに去り、以前に増して罪の意識に呵
(さいな)

まれたからです。ですから「信じたのなら、自分もペテロさんやパウロさんたちのように働きたい」

と思ったことが、現実にはそうは旨く行きませんでした。


(転) では、そのペテロさんやパウロさんたちと、私たちの違いはどこにあったのでしょうか。

それは、聖霊の満たしを受けているか、受けていないかであったのです。当然ペテロさんやパウロ

さんたちは、聖霊の満たしを受けていました。しかし、私たちはまだ受けていません。だから、

なかなか同じようには歩めない部分があります。特に、今日お読みした18、19節にある、

「絶対主の全能の力が如何に偉大なものであるか」、それを知りたいとは思いますが、現実に

私たち自身が味わえるものと、そうでないものがあります。ですから、御言葉を読んでも、

「それは自分には分からないな」という思いが心の中に簡単に入ってきてしまいます。

ところが、聖霊の満たしを受け、これから働きが始まったら、それも分かるようになると

イエス様から示されています。しかし、
今日学びたいのは、御言葉をそのまま受け留め、心の中に

入れていくという作業は、今からでもしていくべきだということです。
「聖霊の満たしを受けて

いないから、出来ない」というのではなく、今から、御言葉をそのまま受けとめて信じて行う心を

持っていくことです。それを実際にしていった人が、ジョージ・ミュラーさんでした。

彼は、孤児院をつくるということは、全く考えていませんでした。しかし、自分の周りに、家の

ない子、親のいない子がたくさんいることを知って、「このまま放っては置けない」と思い、

聖書に示されて始めました。しかし、自分にも子どもがいましたので、自分の子どもを育てていく

だけで精一杯でした。そんな中で、ある日御言葉を通して、「孤児の父は絶対主だ。ならば、

絶対主がその孤児たちを養って下さる」ということを教えられて、決断したのです。しかし、

そのように聖書に書いてあっても、「ふーん」で終わってしまう人もたくさんいます。でも、

ミュラーさんはその御言葉をそのまま受けとめ、自分の心の中に入れたのです。そして、孤児院

を始めました。彼は、自分で事業を起こし、お金儲けをして、そのお金で孤児たちを養って行った

というのではありません。それをやってしまったら、孤児の父はミュラーになってしまうからです。

そうではなく、「孤児の父は絶対主なのだから、絶対主がお金を下さり、食べるものも与えて

下さるはずだ」という考えの中で始め、それを最後まで通していきました。
ということは、

ミュラーさんは、本当に聖書の御言葉が、その通りになるかどうかを本気で試し、挑戦していった

のです。そして、彼は、その挑戦をして、「本当に御言葉通りになる」ということを味わい、

証ししたのです。
ならば、私たちも同じように、聖書に書いてある通りの生き方をし、聖書に

書いてある通り味わい、体験し、証しをしていくべきです。私たちもその願いを持ったのですから、

ミュラーさんと同じようにやっていくべきです。それは、「聖書に書いてあることは、その通り

成る」と信じて、その通り挑戦していくことです。それをしていくために必要なことは、「自分が

思うことや、考えること、また自分の気持ちがすべてだ」という、自分目線を止めることです。

いつまでも自分自身の思いに固執していたら、聖書の側に立った思いを心に入れて、心を変える

ことが出来ません。それをしていたら、御言葉を味わっていくことが、一つもなく人生を終わる

ことになります。


(結) ですから、もう自分目線の思いに留まるのではなく、
絶対主目線で御言葉を読み、

そのまま受け留めていく勇気を持ち、挑戦して行くことです。それが信仰です。
私たちは、

イエス様を信じた時、「もう絶対主だけだ」と思って、平安があったはずです。それは今でも

同じです。「聖書の御言葉は絶対主の言葉ですから、それでいいんだ」と思って心に受けとめたら、

その瞬間に心が温かくなります。そして、希望が生まれてきます。逆に自分の考えに立ったら、

「これは自分には出来ない」と思って、暗さしか出てきません。もし、聖書の中に記されている

事柄を本当に味わいたいと思うのなら、御言葉に信頼して、そのとおり挑戦していくところから、

私たちの信仰が始まります。この一歩を踏み出して行きましょう。



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