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 2014年12月21日    



『私は主のはしためです』





ルカ1章5~23節



(起)「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言ったマリヤさん

の心を学んでいきたいと思います。


(承) さて、まず6節を見ると、ザカリヤさんについて書いてあります。

「絶対主の御前に正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落ち度なく行っていた。」 

では、主の戒めを落ち度なく行っていた程の人が、何故、口がきけなくされてしまったのでしょうか。

それは、御使いガブリエルを通して言われた絶対主の言葉を信じなかったからです。ザカリヤさん

夫婦には子どもがありませんでした。ですから、彼らは長い間、「子どもが与えられるように」と

祈って来たのです。そこへ、「子どもが与えられます」という知らせを聞いたのですから、

本来ならば、「ありがとうございます」と、ひれ伏して感謝すべきでした。

ところが、ザカリヤさんは、「どうしてそんな事があり得ましょうか」と疑い、不信仰な逆らう

言い方をしてしまったのです。今まで絶対主の戒めと定めを落ち度なく行っていた人が、どうして

このような言い方をしてしまったのか?それは、本当の意味で「砕かれた心」を持っていなかった

からです。では、マリヤさんはどうだったのでしょうか。34節を見ると、マリヤさんもザカリヤ

さんと同じ事を言っています。しかし、この場合は疑う心から出た言葉ではなく、ごく自然の流れ

の中で出た言葉です。 マリヤさんは、ザカリヤさんのように、前からこのことを祈っていたわけ

ではありません。突然、「あなたはみごもって男の子を産むでしょう」と言われたのです。

ですから、「私には、まだ夫がありませんのに、どうしてですか?」という言葉は、自然な気持ち

です。そして、その後で「エリサベツも年をとっていましたが、子どもを宿しているよ。絶対主に

とって不可能なことはない」と聞いて、マリヤさんは、御使いの言葉を素直に受け止め、

「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言いました。しかし、

マリヤさんには婚約者がいましたから、婚約者に疑われる可能性がありました。もしそうなれば、

婚約は破棄され、女性として大きな責めを受けることになります。それでも、彼女は御使いの言葉

を受け止めました。それが、いくら自分にとって不利な申し出であっても、絶対主がそのように

仰しゃられるのなら「分かりました」と言って、自分の 我を砕き、自分の身を差し出すことが

出来たのです。これが、マリヤさんの「砕かれた心」だったのです。


(転) では、私たちクリスチャンはどうでしょうか。私たちも、「主の戒めと定めとを落ち度

なく行っていく」ことは正しいと思っております。それができるかどうかは断言できませんが、

それを目指していく生き方、それを追い求めていく姿勢は正しいと思っています。しかしながら、

出来ない自分を抱えつつ、そうすべきだと思っていますので、見せかけという方向に向かって

しまう場合が多いのです。それは、絶対主には、受け入れられることではありません。

なぜなら、絶対主は、心の中にある 本物だけを見られるからです。
その本物とは何でしょうか。

それは、「自分は、見せかけでさえ出来ない罪人である」という 事実を自覚することです。

私たちは、どうあがいても罪人であり、この事実を変えることはできません。

ですから、クリスチャンとして「罪人扱いされたくない」と思っても、
罪人であるのが自分で、

罪そのものでしかない人間です。アダムとエバの子孫として、その罪を背負って生まれてきたの

ですから、この卑しい体を、「イエス様の栄光の体と全く同じ姿に変えられる」まで、

(ピリピ3:21)この罪の心は消えません。確かに、「誰でもキリストにあるなら、その人は

新しく創造された者です。以前のものは過ぎ去りました。見よ、すべてが新しくなったのです。」

(Ⅱコリント5:17)という御言葉はありますが、これは、パラダイスに入れられる時に味わう

ものであって、現在のことではありません。
ですから、今の私たちに必要なことは、罪人が罪人

であるという事実を認めることです。
そして、罪人だからこそ、絶対主から言われたことに反発

せず、たとえ難しいと思っても、「私は主のはしためです。お言葉どおり、従っていきます」

という砕かれた心を持っていくべきなのです。
絶対主は、「やりなさい」と言われたことに対して、

放ってはおかれません。なぜなら、人の力では何もできない罪人である事を分かっておられるので、

私たちを放って置かれることはないからです。確かに、私たちは何もできない情けない者ですが、

「絶対主にとっては、できないことはありません。」(ルカ1:37)ですから、行き詰まることも

ありません。だからこそ、「あなたの助けが必要です」という砕かれた心を持って祈っていけば、

絶対主は助けを下さいます。私たちは、この信仰の心を持っていくべきです。

(結) 私たちにとって生きていく世界は、ここしかありません。絶対主に使っていただいて、

ようやく命を与えられた意味  があるのです。ですから、絶対主とイエス様に、一つ心となって

使っていただく者にならなければなりません。そのためには、

「私は罪人100%の人間ですから、主の助けがなければ何もできません」という土台に立ち、

絶対主から託されたことを、「私は主のはしためです。お言葉どおり、やらせて下さい」と

言って、最後まで主に頼ってやっていくことです。
たとえ、自分のもっている能力を超えること

であったとしても、途中で投げ出してはいけません。このあきらめない心を培っていきましょう。

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