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2014年12月7日    



自分の考えではなく、聖書の考えに立つ





ピリピ3章17~21節



(起)「自分の考えではなく、聖書の考えに立つ」生き方を学んでいきたいと思います。

(承) さて、パウロさんは17節で、「兄弟たちよ。私にならう者となって下さい」と言って

いますが、私たちも「パウロさんの心を学びなさい。パウロさんを見ならいなさい」と言わ

れています。では、その「パウロの心」とは一体何なのでしょうか。それは、「自分の側から見て

考えるのではなく、絶対主の側から見て考える」ということです。例えば、パウロさんがメッセージ

を語る時、「私はこうしているから、皆さんもそうしていきましょう」とか、「私がこう考えて

いるから、皆さんもそうして下さい。」と自分に根拠を置いて話しているでしょうか?

もし、それをしていたら、人間のレベルの話になり、メッセージも人の話になってしまいます。

しかし、パウロさんは、どこまでも、「絶対主がこう言われているから、それをしていきましょう」

と話しています。すると、皆さんは「絶対主の前にこのように考えて生きていけばいいんだ」という

ことが分かり、そうして行こうとなるはずです。ところが問題は、礼拝が終わった瞬間にみことばが

頭から消えて、すぐ自分の側で物事を考えて判断してしまうということです。それなら、メッセージ

を聞いている時だけ絶対主に心を向けていることになり、みことばから離れたら、当たり前のように

自分の考えで、未信者のように生きていることになります。すると、「自分は絶対主を信じ、

イエス様の贖いを受けている」ということが、どこかに飛んで行ってしまうのです。その時、

その人はどこで生きているのでしょうか。救いとは関係のない、世の人と同じ罪の中です。口では、

「自分は救われている。私にはイエス様しかない」と言いながら、心の中には、救われてない自分

がいるのです。それはなぜかと言いますと、
二重生活をしているからです。信じたクリスチャンなら、

絶対主を第一に考え、その道の中で生きます。しかし、みことばから離れると、当たり前のように

未信者と同じ考えを第一にし、世の考えに従うのです。それは、失敗ばかりする自分、どうにも

ならない情けない自分、何をしても怒られてしまう自分を見て、「やっぱり自分の信仰なんかダメだ」

と思ってしまうからです。


(転) では、そこから離れるためにはどうしたらいいのでしょうか。それは、怒られたり、

失敗したり、罪を犯してしまう自分があったとしても、罪人である私たちは、パラダイスに行く

までは罪の肉はなくなりません。ですから、この地上では、へりくだって、「はい。すみません。

自分が間違っていたんです」と認めて行くことです。誰だって失敗したら落ち込みますが、落ち

込む前に、罪人の自分を誤魔化すことはせず、「そのとおりです。すいません。」と正直に自分の

愚かを認めていくことです。そうしたら、絶対主は「それで良いです」と言って、心の中に平安と

喜びを与えて下さいます。私たちは、いくら自分自身の過去の罪について悩んで反省しても、変わり

ません。だったら、罪人である自分を認めて降参し、「何も言い訳できません」と、絶対主に

無条件降伏していくべきです。
パウロさんは、自分自身の誇りを、「ごみのように思っている」

(3:8)と言いました。それは、「自分の中に、頼るべきものはもうない」と認めたからです。


だからこそ、「私はすでに獲得したなどとは思っていません。何とかして獲得しようと懸命に努めて

います」(3:  12~13)と言っているのです。彼は、「自分はやってきた。」とか、

「自分は完成した。」という考えに立ってはいませんでした。「自分はできない者だ」ということを

認めた上で、「何とかして捕えよう」という気持ちで、懸命に努力していたのです。
ですから、

私たちの生き方も、ここにあります。
自分の中には何もない、罪しかない。だから、主にあって、

「何とかしたい。何とか獲得したい」という気持ちです。
無いから諦める、ということではあり

ません。無いからこそ、主にあって頑張ろうということなのです。
後ろ向きにはなりません。

なぜなら、私たちは、「主を信じ仰ぐ心に基づいて、絶対主から与えられる義を持つ者だからです。

」(3:9)だから、絶対主の助けを受けることができるのです。「何とかしよう」と思うのは、

絶対主がおられるからです。そこに根拠があります。この生き方をしない人は、キリストの十字架

に対して、敵対して歩んでいることになります。自分の気持ちだけに頼るのは、絶対主を無視す

ることだからです。ですから、どこまでも自分の気持ちに頼って、イエス様に頼らないのは、

間違っています。その自分の気持ちを砕くべきです。そして、自分の考え、自分の感情に立つのを

やめるのです。はっきり言って、「自分はダメだ」という気持ちに意識を留めたって仕方があり

ません。また、後ろのものを反省しても、仕方ありません。私たちは、主に頼って行ける道がある

のですから、後ろのものを忘れ、前のものに向かって努力して行くだけです。そこだけを見て

いけば良いのです。


(結) どうか、この生き方をしているパウロさんを習って下さい。私たちは、自分の気持ちに

立つのではなく、ただ聖書に書いてあることを、「そのとおりしよう。」と

受け止めて、それが通用するかしないか、試して行くのです。そして、「これでいいんだ」という

確信を掴んでいこうではありませんか!もう自分の考えに捕われずに、聖書の考え、

絶対主の考えに立って行きましょう。 

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