「わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を悔い改めに至らせるために
来たのです。」(マタイ9:13)
キリストは、罪人を救うために何の条件もつけずに受け入れて下さいました。
それは「ただ、絶対主の恵みにより、キリストイエスによる贖いの故に、値なしに義と
された」からです。このことによって、多くのクリスチャンは、「こんな罪人の私も恵み
で救われる。だから、罪人の私を受け入れ続けて下さい。赦し続けて下さい。」と
言います。しかし、何か忘れてはいませんか?
イエス様は「罪人を悔い改めに至らせるために来られたのです。」ということは、
罪を犯しても、そのまんま受け入れ続ける。そのまんま赦し続ける。ということでは
ありません。主は、悔い改めに至らせたいのです。この悔い改めに至るとは、
「悔いし、砕かれたへり下り」がなしで、悔い改めたことにはなりません。即ち、
悔い改めとは、「罪の我を砕いて、へり下りの心を持つことです。」それは、
「二度と同じ罪を犯しません。二度と同じ過ちを犯しません。二度と同じ失敗を繰り
返しません」と、自分に言い聞かすことではありません。私たちは、皆芯から罪人です。
根っからの罪人です。ですから、絶対主の前に、罪の製造機である自分しかありません。
だから、救われてからも罪人です。たとえ全財産を貧しい人々に捧げたとしても、
罪人に変わりありません。それで義とされることはないのです。逆に、たとえ同じ罪を
犯したとしても、救われていないということではありません。
私たちは、罪を悔い改めたとしても、芯から罪人である私たちは、罪が染み込んでいます
から、決して、罪を犯さなくなる人間となることはできません。
「ただ、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされる。」(ガラテヤ2:16)
のです。ですから、私たちの出来る唯一の悔い改めは、悔いし、砕かれたへり下りだけ
です。そのへり下りは、見せかけとか作りものであってはいけません。裁かれて、自分
をかばうところにへり下りはありません。本当のへり下りは、罪人である自分は、煮ても
焼いても、ひっくり返っても罪人であるのですから、ありのまま謝り、ありのまま悔い
改めることです。そこに自分を守るものは、1つもありません。だから、否定されて
当然、怒られて当然、叱られて当然です。反発しない心こそ、へり下りです。
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