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 2013年9月8日 




『私たちが、この地上でどう生きるか』




 マタイ41222




(起)「私たちが、この地上でどう生きるか」について学んでいきたいと思います。

(承) さて、今週の通読で、皆さんはマタイ伝6章までお読みになっていると思いますが、

この6章というのは、クリスチャンがイエス様にあって、「この地上でどう生きていくか」、

ということを語られた章です。その生き方とは、「何を着るか、何を飲むか、何を食べるか」

ではなく、「まず、第一に絶対主の国と、絶対主の義とを追い求めなさい」(633)と

言われた生き方が、イエス様が言わんとしておられたメッセージです。

しかし、クリスチャンが本気でその心を表していく、ということは難しいことです。

例えば4章で、漁師であったペテロとアンデレは、「わたしについて来なさい」と、イエス様

から声をかけられました。しかし、彼らは漁師でしたから、網と舟を手放したら、生活する

ことができません。それは、家族をほったらかしにすることになってしまいます。

ですから、常識的に考えると、「そんなことは、できません」と言ってしまいそうです。

また、彼らにとって、網や舟というのは漁師にとって地上の宝であり、そこには心が入って

いますから、そう簡単に手放すことはできないものです。でもイエス様は、「それよりも、

わたしに従って来なさい」と言われたのです。


(転) では、イエス様が、彼らに求めておられたものとは何でしょうか。

それは、「天で通用する心」です。私たちは、「天で通用する心」を、キリシタンの殉教者

たちの叫びを通して学ぶことができます。彼らは、宣教師からイエスキリストの話を聞いて、

「本当の殿が分かった。だから我々は、命をこの殿に献げて従っていく」と決め、殉教の道を

選択していきました。ところが、彼らがイエス様とお会いした時、「自分たちは本物を

知らずに、この命を落とすことになりました。私たちの悔いは、イエス様だけを信じ、

イエス様を通して、私の天のお父様にお祈りを捧げしてこなかった深い罪でございます。

私たちの処分は、イエス様にお任せします。」そして、「自分たちはお裁きを受けるだけです」

と言ったのです。しかし、イエス様はその後、「わたしは彼らの心を決して無下にはしません。

当然、彼らをわたしの懐に迎えます。確かに、彼らの心には混ぜものがありました。

しかし、彼らは、わたしを求めるが故に、財も地位も命も捨てて、わたしを選んでいった

のです。その心をわたしは知っています」と言われました。これがイエス様のお考えであり、

「天で通用する心」なのです。私たちは、天において受け入れられるこの心を学ぶために、

今、地上に生かされています。そして、日本のキリシタン達と同じように、「たとえ、

殉教することがあっても、イエス様に対して真実な心を持っていきたいんです」と、

天で通用する心を持って、この地上で証しし、その選択が正しかったということを、

天において味わいたいのです。いよいよ、私たちはその働きの中に入っていきます。

全員が同じように、この道を歩み、同じ苦しみを共に味わっていくのです。

しかし、ここで理解しておいていただきたいことは、牧師や伝道者と、普段働いている

一般のクリスチャンとでは、少し違いがあるということです。牧師や伝道者は、地上の宝は

何もなく、持っているのは自分の身だけです。地上で奪われるものは、自分の命だけ

ですから、そこには、しがらみがありません。しかし、世の働きに命を懸けている多くの

クリスチャンは、地上に宝を置いていますから、牧師や伝道者と同じ心を持つことは

難しいでしょう。しかし、日本で殉教して行ったキリシタンたちは、皆ほとんどが一般

信徒であったのです。それでも彼らは、イエス様を第一にして、地上の宝を捨てていく

決心をしていました。そして、そういう心を持った者たちは皆、イエス様の懐に引き上げら

れていきました。ですから、私たちも同じように、「私は従います。この地上の宝なんて

どうでもいいです」と、イエス様の方に心を向ける決心ができるかどうかです。

即ち、「まず、絶対主の国と、絶対主の義を求めなさい」です。私たちは、患難時代の中に

入ります。間違いありません。イエス様がお出になるのは、「荒らす憎むべき者」が出現して

からです。それ以前に携挙はありません。ですから、この信仰を全うしていくことが、

「この地上で生きていく生き方です。」今、その覚悟を持っていくべきなのではない

でしょうか。

(結) 私たちは、イエス様に対して本気でこの心を持って、初めて信仰のスタートです。

 本気というのは、「自分の宝をいつでも捨てます。私はイエス様の方を選んでいきます」

という心です。この心がなかったら、イエス様に従っていくことはできません。私たちは、

自分の命さえ、もう必要ありません。イエス様にだけに託していきたいのです。その本気の

心を持つことによって、絶対主との一致が生まれ、教会の一致が生まれます。始めていこう

ではありませんか。 




                                      

  
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