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 2013年9月1日 




『悔いし砕かれた心、空っぽの器』




 ヨハネ181927




(起)「悔いし砕かれた心、空っぽの器」について、尚も学んでいきたいと思います。


(承) まずは、8月に訪れた九州の殉教者の声を通して学んでいきたいと思います。

彼らの叫びを聞いて感動させられることは、彼らは、「自分たちを裁きからお救い下さい」とは

一言も語っていなかったことです。むしろ、「本当に申し訳ありませんでした。自分たちは、

偶像礼拝をしてきました。罪を犯しました。こんな者ですから、イエス様の前にお裁きを受ける

だけです」と告白していました。

 実は、聖書を見ていくと、イエス様もその心を持っておられたということが分かります。

18節から、大祭司がイエス様に尋問し、「お前は彼らに何を教えたのだ」と問いただして

いますが、もし、イエス様が少しでも釈放されることを考えておられたのならば、自分の身の

安全と立場を守るために、大祭司にきちんとお答えになっていたはずです。

更に、「自分には罪がない」という主張を明確に出来たと思います。ところがイエス様は、

何もお答えにならず、「聞いた者達から聞きなさい。」と言われ、自分からは何一つも弁解

されませんでした。
イエス様は、彼らの裁きから逃れようとは考えておられず、はなから、

死を覚悟して、潔く彼らの尋問の場に立たれたのです。
イエス様でさえ、父なる絶対主の前に、

「わたしはあなたの裁きに委ねます。裁きを受けるだけです」という気持ちを持っておられた

のです。

(転) では、私たちはどうでしょうか。私たちは、罪を犯す度ごとに、「赦して下さい」

ということばかりが先立っています。私たちは、イエス様を信じた時、自分は罪人だと

分かりました。だから、「こんな罪人でも赦される。こんな罪人でもいいんだ。だったら、

イエス様のために生きていこう」と思いました。そして、そのことが分かったとき、

自分の罪で、苦しんだり、いじけたりするようなことがなくなりました。ですから、

それは私たちにとって救いでした。しかし、そこにある大きな問題は、自分の犯した罪を

棚上げにするということです。私たちは、確かにイエス様の血の代価によって罪赦され、

天の御国へと引き上げられます。それは間違いありません。けれども、信じた自分が罪を

犯さなくなったわけではありません。ですから、自分の罪を棚上げすることはできない

ばかりか、まして人を裁いたり、責めたりすることはできません。また、自分の罪を軽く

したり、自分の罪を忘れることもできません。私たちは欠陥商品で、生まれながらに罪を

犯し続けている、どうしようもない者です。ですから、その事実を決して忘れてはいけ

ません。

 浦上の殉教者たちは、「自分たちは隠れキリシタンです。いや、隠れキリシタン

でもありません。自分たちのような者は、ただお裁きを受けるだけです」と言いました。

しかし、本当にお裁きを受けるべきなのは私たちです。迫害など一つもないこの時代に

生きていながら、これまで、自分の信仰を明確にはっきりと表すこともせず、どれだけ

ごまかし、どれだけ隠してきたでしょうか。私たちは、日本の隠れキリシタンを裁くことは

できません。
私たち自身が、隠れキリシタンだからです。

この事実が分かったら、「赦して下さい」と願うことができますか。

まさに私たちこそが、「お裁きを受けて当然です」と、そのようにしか言えない者です。

砕かれた悔いし心とはそのような心であり、「自分という者は、裁きを受けるだけの者だ」

と、自分自身が自覚していることです。
しかし、多くの人たちは、その自覚さえなく、

弱い自分から逃げ、「イエス様の愛だ。恵みだ」という方向に走るのです。それは100

間違っており、イエス様の御心ではありません。私たちは、犯した罪の裁きを受けなくて

はならず、そこから逃げることはできないのです。だから、「自分自身はお裁きを受ける

者です」と、私たちがそう思うのは、丁度です。罪人であるにもかかわらず、叱られない

ようにしようと思うなんて、身勝手過ぎます。
私たちは、叱られて、裁かれて丁度です。

私たちは皆、アダムの家系、罪の家系です。それを消すことは絶対にできません。

ですから、私たち自身が、その心を持っているということは当たり前なのではないでしょうか。

悔いし砕かれた心とはこういうことであり、イエス様が語っておられるメッセージは

これだけなのです。

(結) しかし、御霊様はいわれます。「彼らのことは、分かっています。

私は、砕かれた魂を決して蔑みません。そして、その心を持つものを、何故私が

罰するでしょうか」と。ですから、私たちは事実を事実として認めていくべきでは

ないでしょうか。このことを心で悟らなければ、イエス様に対して真実な仕え方はでき

ません。必ず、ごまかしが出てきます。自分自身の心に、「認めてほしい。裁かれたくない」

という思いが損得勘定の入った信仰の世界に入れるのです。その信仰のあり方は、間違って

います。この真理を受け止めて下さい。イエス様は、「人は関係ありません。あなたはわたしに

従ってきなさい」(22節)と言って下さっています。
自分をごまかさず、イエス様に対して

真実なへりくだりと、砕かれた心を持って従って行くのが、空っぽの器
なのです。 




                                      

  
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