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 2013年9月15日 




『悔いし、砕かれた心』




 マタイ103442




(起)殉教者たちが持っていた「悔いし、砕かれた心」について学んでいきたいと思います。

(承)さて、まず詩篇の5117節を見てみると、「砕かれた、悔いた心」となっていますが、

「悔いし砕かれた心」というのが正しい訳です。「砕かれた悔いし心」であるなら、強力な

取り扱いによって砕かれ、それによって悔いし心を持つということになります。ですから、

まず砕かれるために激しい取り扱いを受けなければなりません。しかし、激しい取り扱いを

受けたからといって、必ずしも悔いし心を持つとは限りません。

 例えば、私たちの教会の歩みの中で、恵みの信仰というものがありましたが、その中で信じ

育った人は、
「恵みで救われるんだから、過去の失敗や経験には意識を留めなくても良いんだ」

と思って、自分の罪を全部棚上げにしてしまう人がいます。そういう中からは、悔いし心は

生まれてきません。では、私の信仰の歩みを通して、どうであったのか、証ししたいと思います。

まず信じる前に、私は「人を裁くお前は何者か」というメッセージを聖書を通して知りました。

そして、「お前は他人を裁けるのか。お前自身が罪人だろう」と、聖霊さまからの強力な訴えかけ

がありました。私はその時、「そのとおりだ。自分は罪人で、他人を裁けるような者じゃない。

自分の罪を棚上げして生きていくことなんてできない」と分かりました。

そして、「この自分には救いが必要だ」と分かり、イエス様の救いを受け取りました。

しかし、信じたその後の自分が、罪の責めから解放されたのかというと、そうではなく、

むしろ、前以上に自分自身の罪が見えるようになり、罪に訴えかけてくる悪霊の声に悩ませされ

続けました。「イエス様を信じて救われれば、もう責められない自分になれる」と思って

いましたが、自分自身の肉の性質は一つも変わっていませんでした。ですから、悪魔は弱い
    

ところを憑いて責め、イエス様の救いを疑わせました。私は、その変わらない肉の性質を、

悔いて悔いて悔いて、呪って呪って呪いました。私はクリスチャンになってから、前以上に

悩む人間になり、本当の救いが何であるか、この年まで分かりませんでした。

しかしこれは、私たちの現実であり、罪深い私たちは、この地上にあっては罪の性質は

変わらず、むしろ罪の製造機ですから、悔いることしかないのです。
ですから、自分たちが

自分の罪が責められ続けていくのは当然のことです。生きている限り、その責めは受け

なければ成りません。

(転) では、殉教者して行ったキリシタンたちはどうだったのでしょうか。

彼らの中には、罪に対する責めはなかったのかというと、そうではありません。彼らも、

私たちも同じ罪人です。彼らは、毎年正月に寺に行って踏み絵を踏んでいましたから、

「自分の裏切りの罪から救われたい、この苦しみから逃れたい」という罪の意識はあった

と思います。ですから、イエス様から、「自分の十字架を負って、わたしに従って来ない者は、

わたしにふさわしくない。(38)わたしの御名のために受ける、苦しみから逃げる者は、

わたしにふさわしくない」と言われています。すると、彼らは皆イエス様にふさわしくない者

です。彼らは、「自分はずっと隠れキリシタンで、自分の命を守ってきました。まさに、

自分の十字架を負わずに、自分の身を守ってきた者です。ですから、イエス様にふさわしい者

ではありません。お裁きを受けるだけです」と言いました。イエス様とお会いした時に、

その罪が全部明らかにされたからです。私たちも同じように、
今までやってきた罪を全部

一つ一つ思い出させられたら、誰一人裁かれずに済む人はいません。その時、私たちはどんな

顔をして、「イエス様助けて下さい。救って下さい」と言えるでしょうか。言えません。


ただ、
「お裁きを受けるだけです」という言葉しか出てこないはずです。このように見ていくと、

殉教者たちの姿と、私たちの姿は同じです。ですから、自分の罪に悔いることは、

今日の私たちも当然あってしかるべきです。私たちは、それを棚上げしたり、帳消しに

することはできません。確かに、イエス様の側では、十字架上で私たちの罪を帳消しにして

くださったので、私たちは、赦され、御国へ入れていただけます。しかし、この地上では、

自分の生まれながらの罪の性質はなくなりませんので、自身の肉や性格に対して、嫌悪感を

持っていて丁度なのです。私たちは、
母の胎の中にいる時から罪人で、罪の製造機として

生まれてきました。
どこに誇れるものがありますか?イエス様の目から見たら、みな取るに

足らない罪人であり、認めてもらえるような人間は、一人もいません。それが分かったら、

当然へりくだるしかありません。このへりくだりの心を、殉教者の証しを通して学ぶべきです。

私たちは、彼らのようにあれだけの「悔いし砕かれた心」を持っていて、イエス様の前に丁度

なのです。

(結) ですから、どうか皆さん、悟って下さい。私たちは、決して、罪の棚上げ

はしてはいけません。むしろ、へりくだって励みて悔い改めるべきです。この心は、イエス様の

前に正しいのです。イエス様は、へりくだり、「悔いし砕かれた心」を持ってくる者を、決して

蔑むことをされません。又、見下げることをされません。しかし逆に、心を譲ろうともせず、

自分の我を立てて向かっていく者には、いずれイエス様から「私は知らない」と言われます。

今残っている皆さんは、「空っぽの器に油が満たされる」ということに、同意して最後まで残った

人たちです。「空っぽの器に油が満たされる」とは、へりくだりの世界です。自分の我を保った

ままでは、これを追い求めていくことはできません。自分の我を捨て、悔いて、悔いて、悔いて、

砕かれた世界に入っていく者だけが、主の憐れみに預かるのです
。残りの生涯、殉教者の持って

いた「悔いし砕かれた心」に習って我を砕き、主に従って行きましょう。 




                                      

  
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