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 2013年8月25日 




『へりくだりの心』




 ヨハネ151818194




(起)九州の殉教者の叫びを通して、「へりくだりの心」について改めて学んでいきたい

思います。



(承) さて、私たちは今回の九州旅行で、殉教者の叫びを聞きました。そして、そこから

私たちが学んだ大切なことは、彼らのへりくだりの心です。彼らは、確かにイエス様のために

命を懸けて殉教して行った人々です。しかし、イエス様とお会いしてから、全てが明らかにされ、

彼らの信じていたものに、誤りがあったことが分ったのです。それは、絶対主に罪の告白を

すべきものを、司祭に言い表す告解や、イエスの肉の母マリヤを仲介者として崇拝することなど、

カトリックの間違った教えが幾つもありました。

ですから、彼らはそれらをずっと悔い続け、
イエス様だけだと言っておきながら、それとは

正反対の偶像礼拝をしていたことを、心から悔いていたのです。
「本当に申し訳ありません

でした。こんな者ですから、イエス様の前にお裁きを受けるだけです」という思いが、彼らの

心から離れなかったのです。そして、イエス様と出会い、自分自身が罪人(欠陥商品)である

ということを、十分思い知らされていました。



(転) では、その殉教者と私たちの違う点は、どこでしょうか。私たちも、「自分たちは

罪人で、欠陥商品なんだ」と分れば、「その通りです」と言うでしょう。

ところが、「救われたのだから、裁きからお救い下さい」と必死になります。

裁かれないために信じたからです。それなのに、裁かれるなら、信じた意味がないと思う

のです。こうして、
自分の赦しのことばかり考え、自分が赦されることも

出来ない罪人であることを自覚しない
のです。また、自分自身が犯した

失敗を棚上げして、「今、悔い改めて一生懸命頑張っている自分を認めてほしい」と、自分の

存在を受け入れてもらう方向ばかり、エネルギーを注ぎます。それは、間違っています。

殉教者は、「悔い改めたから、許してください」とは言っていませんでした。彼らは、

「私たちは、混ぜものを信じて信仰をごまかしてきました。イエス様の前に言い訳できません。

本当に私たちは馬鹿でした。裁かれるだけです」
と、自分の罪を棚上げにせず、何回も、

何千回も謝り続けていたのです。自分たちがやってしまったことが消えないからです。


ところが、私たちは、裁かれるのが嫌でごまかし、怒られるのが嫌で自分自身の惨めな

罪は忘れます。そして、自分勝手に自分自身の罪を棚上げして忘れようとします。

しかし、私たちは、いくら棚上げしても、すぐ罪を犯す者で、どこを見ても罪しかない者です。

罪を犯さない自分になりきって、イエス様の前に出ることなんてできやしません。なのに、

そんな私たちが、「もう悔い改めましたから、罪を犯しません。ちゃんと従っていきます」と、

見せかけることで誤魔化しています。これが真の悔い改めの姿でしょうか?違います。

本当のへりくだりは、罪人であることを自覚した謙遜な心を持つことです。私たちは、

いくら、悔い改めても、罪はなくならない欠陥商品です。ですから、その事実から来る

へりくだりは、素直さしかありません。

私たちは、何をしても、いくら悔い改めても、欠陥商品のままです。だから、どこまでも罪人

そのものであることを自覚してこそ、 それで丁度です。だから、絶対主はイエス様を送って

下さったのです。だから私たちは、イエス様に繋がって、イエス様にあって生きていくしか

ありません。(154)欠陥商品がいくら頑張っても、欠陥商品であることには代わりあり

ません。正規品になることは絶対になく、自分で良き実を結ぶことはできないのです。

だから、
私たちは、自分自身から離れ、ただイエス様にあって生きる中で、初めて実を

結ぶことができます。
自分から離れる気持ちさえあれば、イエス様は繋がって下さり、

イエス様から助けも受けることができるのです。
私たちは、昨日も今日も明日も罪人です。

その自分自身を認めることが悔いし砕かれた心であり、イエス様は、「その心を軽んじない」

と言って下さいます。このことが分かって初めて、「この身は焼かれて当然です」と、

殉教者と同じように言えるのです。これがなかったら、生涯イエス様に仕えていくことは

できません。


(結) 
主は、殉教者のその砕かれた心を卑しむことはされませんでした。主は、罪人が、

罪人の立場を取ることこそを、無下にはされません。むしろ、罪人のくせに、見栄を張って

正しい者のように見せかけようとする姿こそ、主は嫌われます。正しい者のために十字架に

架かったのではないからです。私たちのありのままの姿は、昨日も罪人、今日も罪人、

明日も罪人です。

ですから、主からお叱りを受け、裁きを受けるのは当然です。私たちはそういう者でしか

ありません。なのに、おしかりを受けることから逃げて、自分の正しさを主張する生き方は、

身勝手極まりありません。私たちは、イエス様の前に、どうしようもない罪人です。ならば

遜って、しもべの心をもって従っていこうではありませんか。逆に、「できる自分」を追い

求めている人間が力をもらったら、傲慢になるだけです。それは、イエス様の栄光を害すること

になります。
私たちは何もできない者ですから、すべて、イエス様がやって下さったという

形を通して、主の働きに用いてもらいましょう。栄光は、ただイエス様にだけあります。


私たちは、今、この心で一致しようではありませんか。 


 
    





                                      

  
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