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 2013年7月21日 




『自分自身をゼロにする』




 第Tコリント12111




(起)「自分自身を0(ゼロ)空っぽの器にする」ということを学んでいきたいと思います。


(承) さて、私たちの教会は、聖霊のバプテスマを20年間も求め続けて来ました。

そこには、ジョージ・ミュラーさんの影響があります。ミュラーさんは、自分の計算によって、

計画を成功させようとはしませんでした。「どこまでも、絶対主の手の中にあって、孤児たち

を育てていく」という考えの中でやって行かれました。彼は、「目に見えない絶対主に100

頼ってやる」と決めていたのです。それは、今まで経験したことのない、新しい方法で100

新しい考え方です。ですから、それが成功するかどうかも分からない世界でした。

しかし、彼には、絶対主がいるという確信に立っていましたから、「絶対主が、

孤児の父である以上、そのように仰しゃるなら、その通りできるはずだ」と考え、

現実に2000人以上の孤児を収容して育てて行きました。「彼は、まさに、絶対主に

信頼し切って行った人です。」私たちの教会は、彼の生き方を真似てきました。

しかし、私たちがミュラーさんと同じようにやっていくには力不足だ。「聖霊の力が必要だ」

と気づかされ、聖霊のバプテスマによる賜物を求め始めたのです。

 ところが、聖書を見ると、「御霊は思いのままに、それらを各々に分け与えられる

のです」とあります。(11節)御霊さまが、いつその思いを持って与えて下さるかは、

私たちには分かりません。ですから、私たちは、
与えられるまで求めていくと決めたのです。

そして20年間待ち続け、耐えてきました。聖霊さまが、「ここまで堪え忍び、待ち続けて

きたことに感動を覚えています」と言われたほどです。私たちは、そこまで一途に追い求めて

きたのです。そして、ようやく「聖霊のバプテスマの時が来ました。」ですから、私たちは、

今皆が絶対主から御霊の賜物を受け、真実な働きをしていく時代が始まるのです。知恵の言、

知識の言、そして癒しの賜物を与えて下さり、しるしも起こして下さいます。

「本当にイエス様は生きておられる」と体験していくのです。しかし、これは賜物のほんの

一部です。私たちは、もっといろんな賜物が与えられます。そして、それは今までに見たこと

のないものや、聞いたことのないものばかりだと思います。


(転) では、そういうものを頂いていく、私たちの信仰の心の姿勢とは何でしょうか。

それは、空っぽの器です。
自分の先入観を持っていたら、主の考えも心に入ってきません。

ですから、自分たちの肉の勝手な考えや先入観を捨てるべきです。私たちは、子どもの頃から

ずっと学校で学んできたことが身についていますから、私たちの意識は、今までの自分の

経験から、自分の考えられる範囲内で考えようとします。そういう意識を持っていたら、

全く新しい霊的な世界を学ぶことはできません。「自分の分かる世界で理解したい(自分流)」

という、自分が持っている先入観の知識は、全部邪魔なものです。

私たちは、元々、霊的なことは、何も分かってない者であり、0(ゼロ)なのです。ですから、

「自分はこの方法でやっていきたい」と自分のこだわりを持っていては通用しません。ですから、

それを全部捨てて0にして、真っ新な気持ちで、「教えて下さい」と絶対主に聞いていくのです。

そのへりくだった心が必要です。そこから、かつて味わったことのないものを経験していくように

なるのです。その心を持たずして、賜物だけもらっても、その賜物を自分流で使ってしまうなら、

コリントの教会のようになってしまうのです。コリントの手紙は、そのメッセージを私たちに

語っています。私たちは、絶対主から賜物をもらったなら、正しい使い方をしていかなければ

なりません。そのために、まず、「自分は分っている」と思う傲慢が打ち砕かれるべきです。

私たちは、
何も出来ない人間であると悟ることが丁度なのです。

だから、
新しいことを新しい心を以ってそこから一つずつ学んでいくのです。その心を持って、

御霊の賜物をもらうなら、その賜物を正しく主の前に用いていく事が出来るでしょう。

(結) このように、もう自分の我にこだわって生きるのではなく、
今までの自分のこだわりを

全部追い出して空っぽにし、「一から学ばせて下さい。教えて下さい。習わせて下さい」
と、

本気で絶対主から学ぼうとするなら、絶対主は教えて下さいます。この心が私たちに欠けて

いたのです。この心を以って、絶対主の御心通りに使っていただくのです。

「自分は分かっている、知っている」などと思い上がってはいけません。また「知っている、

分かっていると思う上に積み上げよう」と考えてはいけません。それをゼロにするのです。

今まで自分が知っていると思っていた者から離れ、素直に、正直な心で学んでいきましょう。

パウロさんは、「私がキリストを見ならっているように、あなた方も私を見ならう者となって

下さい」(111)と言いました。ですから、
私たちも0(ゼロ)の心を持って見習っていく

ことに素直になりましょう。
そして、自分のこだわりを捨て、空っぽの器になって学んで

行きましょう。そこに、祝福があります。      



                                      

  
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