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 2013年7月28日 





『確信を持って絶対主に仕えていく』




 第Tコリント152934




(起)「確信を持って絶対主に仕えていく」ということを学んでいきたいと思います。


(承) さて、29節に、「死んだ身体のためにバプテスマを受ける〜」とありますが、今までは、

「ユダヤ人の中には、死んだ人たちに代ってバプテスマを受ける習慣があるのだ」と考えてい

 ました。

しかし、御霊さまに聞いてみると、そうではないことが分かりました。「死者に代って」となると、

他人のためにバプテスマを受けることになってしまいますが、私たちが、イエスキリストを信じて

バプテスマを受けるのは、他人のためではなく自分自身のためです。

ですから、バプテスマは、キリストと共に死んで甦るということを表します。現実には死んでいま

せんが、私たちは死んだ体を持っており、それと同時に、イエスキリストによって復活した、

新しい体も持っているということです。それが、現在の状態に関係なく、「死んで甦った者」

というギリシャ語のアオリスト形の時制です。しかし、私たちには、現実的に肉を脱ぎ捨て、

罪と死から完璧に解放されるハッピーデーがあります。それが、イエスキリストの再臨の時です。

しかし、それまでは、この肉の中で葛藤があります。コリントの教会の人たちは、このことを

信じようとしませんでした。それは何故かというと、「自分たちは本当に甦るのか?」と

不安になったからです。



(転) では、彼らは何故、そのような疑問を持ったのでしょうか?
「それは、救われて新しくなった

のに、現実の自分は古い肉のままで、復活した新しい人になっていない」という現状が、彼らに混乱

を与えてしまっていたから
です。確かに、救われた者であるのに、依然として古い性質に捕われて

いる現実があります。しかし、救われた人は、
「その古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着なさい」

言われています。これがパウロのメッセージであり、そうするかどうかは、キリストにあって

生きていこうとするクリスチャンひとり一人の、自分の意志100%にかかっていることです。

これが私たちの信仰の姿勢であり、私たちはいつもこの意識で物事を考えていくべきです。

確かに自分自身のうちに古い人はいます。また、同時に新しい人もいます。

しかし、これは、私たちが地上にいる限り止むを得ないことです。「救われた者が瞬間に天に

引き上げられる」というのが、絶対主のお考えであったなら、すぐに新しい人で生きることが

可能だったと思いますが、そうなると、誰がこの地上で福音を語るのでしょうか?いま天に

おられるイエス様は、その仕事を私たちに託しておられます。ですから、その仕事を忠実に

行う者をイエス様は必要とされているのです。そのためにも、私たちの意識を明確にしな

ければなりません。私たちは、パウロさんを習っていくべきです。

パウロさんも古い人を持っていましたが、イエス様に出会ってから、古い自分を塵芥と考え、物事を

考える意識を変えていきました。彼は、古い人の中で手紙を書いているわけではありません。

 彼は、「我、キリストと共に十字架に付けられたり、もはや我生くるにあらず、キリスト我が内に

ありて生くるなり。」と言って、肉にあっても、キリストの中で生きていることを明確にして

います。ですから、私たちも聖書を理解する時には、パウロさんと同じように、

「イエスキリストにあって新しくされた自分」で読んでいかなければ、パウロさんの言いたい

ことは分かりません。

もし、私たちが、その信仰に立って物事を考えていくならば、いつも、その物の見方や考え方で

判断していくことができます。また、私たちはこの信仰に立つように、信仰の成長が必要です。

そのためには、
「新しい人で生きていけばいいんだ」という聖書のことばを確かめていくことです。

新しい人の生き方というのは、習わないと分からないものもあります。それは、これまでの経験には

なかったことだからです。だから理解できないことを、パウロさんは「自分に習うように」と言い

ました。ですから、
素直に聞いて初めて分かってくるのです。しかし、ただ聞くだけではなく、

それを実際に経験し、「確かに聖書の中にも書いてある事が、今日も通用するのだ。」ということを

試して行く必要もあります。
そうでないと、頭だけの理解では、問題が起こってきた時、

気持ちが変わってしまい、自分の立ち位置を損得で判断して変えてしまうからです。それでは

いけません。ですから、「今私が生きているのは、イエスキリストを信じる信仰によって生きる。」

ということを実践していくのです。この地上でも、その心でやっていけるんだということを実践して

味わうのです。また、聖書にもそのように書いてあるかどうかを確認したなら、絶対主に

「従っていこう」という気持ちも強くなります。



(結) ですから、今日聞いたメッセージも、「あ、そうか」と頭だけに留めるのではなく、

分かったら、それを行動に移して確認するのです。
それによって、自分自身の中に益々信仰の確信が

増してきます。そうすると、私たちはコロサイ書に書いてあるとおり、ますます新しくされ、

真の知識に至るのです。(コロサイ310

私たちは、この確信を持って絶対主に仕えて行きましょう。 



                                      

  
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