『本気の祈り』
ルカ22章39〜46節
(起) ゲッセマネの園でのイエス様の祈りから、本気の祈りについて学びたいと思います。
(承)さて、十字架を目前にして、イエス様は、「父よ。どうぞこの杯をわたしから取り除けて
ください。しかし、わたしの思いではなく、御心の通りにしてください。」(42節)と
祈られました。そして、この時イエス様を御使いが天から現われて力づけた、と記されています。
イエス様は、十字架を前にして弱さをさらけ出されました。神学的には、イエス様は完全な神で
あり、完全な人です。もし神の子ならば、何故このような祈りをするのでしょうか。
イエスご自身が、ご自分を創造主の子であると断言しておられるのに、この弱々しい姿をどう
理解したらよいのでしょうか。実は、ここに真理の二面性があります。
(転) では、イエス・キリストに関して真理の二面性について考えてみましょう。
それを例えて言うなら、潜入捜査官のようなものです。捜査官は、警察のバッジをはずした時点で、
警官としての立場を失います。同じようにイエス様は、創造主としてのあり方をお捨てになり
(ピリピ2章6〜8)、御子としての立場を創造主に預けて、私たちと変わらない人間になられた
のです(Tテモテ2:5)。ですから、人として歩んでいくことは、恐れや嘆きや疑いも起こって
くるということです。イエス様は、「この盃を取り除けてください。」とか、「わが父、わが父、
どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と、人としての恐れと弱さと嘆きをさらけ
出されたのです。しかしイエス様は、「わたしの思いではなく、御心の通りにしてください」と、
創造主への信頼と献身の心を表されました。それ故、イエス様は、信仰の創始者となられたのです
(ヘブル12:2)。イエス様は、人の子ですから決して自分の力で甦ったのではありません。
創造主がイエス様を死から甦らせられたのです。イエス様は、創造主にバッチを預けて、
人間として立場を取って来られましたのですから、死ねば、ハデスに捨てられるのです。
ですから、恐怖心が無いはずがありません。しかし、そこまでもして、人の罪を贖う使命の故に、
あらゆる恐れや不安や怖さの中で、「御心の通りにしてください」と心を定め起き上がられた
のです。もし、怖いからといって、父にお願いして12軍団の御使いを遣わしてもらうなら、
父の御心から逃げることになり、父の御心から離れた決断をすることになります。それは信仰の
ない世界です。自分の命さえも差し出していく姿勢こそが、信仰だからです。殉教した初代教会の
信徒たちやキリシタンたちも、こうした生き方を貫いた人々です。私たちも同じ心、同じ姿勢を
求められているのです。
ところが、私たちは、困難や苦しみに会わないように守って欲しいと願い、苦しみから助けて
くださいと祈ったりします。また、いつもおねだりの祈りをします。これは自分中心の信仰で
あって、創造主に対する本気の信仰の現われではありません。イエス様のように、「苦しくても、
その道を通っていきます。御心の通りにしてください。」と、堅く信仰に立った本気の祈りを、
創造主は願っておられるのです。それは、信仰の道をつぶしにかかる悪魔に立ち向かうことでも
あります。ですから、祈りは、悪魔に戦いを挑む事です。それ故、強い心を持って悪魔に戦いを
仕掛けていく祈りをして行く必要があります。イエス様は血の汗を流すほどに悪魔に立ち向かわ
れ、御心がなるようにと祈られた時、悪魔は去って行きました。
ですから、私たちも、立ちはだから壁に怯え、逃げ出したくなっても、凛々しく信仰に立ち、
最後まで主に従って行くという心が勝つなら、信仰の勝利者となるのです。悪魔は、肉体を滅ぼ
しても、魂を奪うことは出来ません。私たちの命は、主の手の中にあるからです。
だから、イエス様と同じように復活させられるのです。
(結) 私たちは、自分の力で戦うのではありません。御子を信じたとき、私たちは創造主の子と
なる特権を頂きました。だから、イエス・キリストによって頂いた創造主の権威によって戦うの
です。今こそ教会が結束し、強い心で祈る時です。祈りは聖なる大胆さが必要です。悪魔はわたし
たちの魂には触れることは出来ません。だから、恐れることはありません。しかも私たちのバック
におられる方は、偉大な創造主です。私たちは、創造主の子としての権威を頂いているの
ですから、イエス様と同じように信仰の証しを立てていきましょう。 |
|
|
|
|